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第383回 邪馬台国の会
銅鐸王国への東遷


 

1.銅鐸王国への東遷

■銅鐸について
銅鐸は下記にあるように、いくつかの形式に分類されている。そして、時代が新しくなるにつれ、大きくなる傾向がある。最もふるいものが、菱環鈕式であり、その後、外縁鈕式、扁平鈕式、突線鈕式となる。この分類は国立歴史民俗博物館の館長であった考古学者の佐原真氏によるものである。
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その鈕の形式が下記である。
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佐原真氏は銅鐸の分類では、 383-03鈕によって年代の順位をつけた業績は大きい。しかし年代の推定を全体に古くしたのは問題であった。

銅鐸の出土状況は他の同伴物が少ないので、年代を特定するが難しいと言われている。そのため考古学者によって、推定年代が大きく違う。京都大学教授だった小林行雄氏から明治大学の杉原荘介氏まで300年以上の違いがある。

考古学者の寺沢薫氏は『邪馬台国時代のツクシとヤマト』(学生社2006年刊)で破砕銅鐸の年代について、庄内式土器~布留式土器の時代とした。例えば、大阪府豊中市の近畿式銅鐸を庄内~布留2式としている。更に大阪府和泉市の近畿式銅鐸も同じである。これは、邪馬台国時代から古墳時代になるまでの時代としたのである。このことは佐原真氏の年代推定より、大分新しくなる。 (下の表参照)
この寺沢薫氏の推定には大賛成である。

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神武天皇は実在しており、邪馬台国時代から古墳時代に入ったころ活躍したと考える。つまり九州から鏡の勢力がやって来て、畿内を制圧して、銅鐸が破壊されたと考えると説明が付く。畿内説の寺澤氏のデータがその説を裏付ける結果となっている。

青銅器では鏡の世界と銅鐸の世界がある。下の表を参考にすると、左に鏡、右に銅鐸を配置する。そして、古いものは上、新しいものは下に配置し、地域として福岡県、島根県、奈良県、静岡県の出土状況を示す。
更に、点線の囲みは「北中国」系の銅材料で、実線で囲まれたものは「南中国」系の銅材料である。
(下図はクリックすると大きくなります)383-05


この表から、鏡の世界では、古い時代の鏡は福岡が多い。これらの鏡は「北中国」系の銅材料である。そして西晋鏡から「南中国」系の銅材料となるが、やはり福岡県が多い。その後、同じ「南中国」系の銅材料である画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は畿内の奈良県が多くなる。

銅鐸の世界では、銅鐸は全て、「北中国」系の銅材料である。

古墳時代となってから青銅器の世界は、銅鐸が廃棄され、鏡の世界に統一された。結果として、「北中国」系の銅材料は「南中国」系の銅材料の画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡に集約される。
地域として、鏡の世界の福岡、銅鐸の世界の島根、奈良、静岡から、鏡の世界の奈良に集約されるのである。

 

■最末期の銅鐸は、邪馬台国時代以後ごろのもの
383-06最末期の銅鐸の、近畿式・三遠式銅鐸を、邪馬台国時代以後ごろのものとみてよい有力な実証的根拠がある。

佐原真氏は、その著『祭りのカネ銅鐸』(講談社、1996年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「銅鐸のうち、新段階の三遠式・近畿式銅鐸や、日本製の小形鏡の大多数などの鉛同位体比は、ひじょうにせまい範囲にまとまっており、『まったく等しい』といってよいほどなので、同一の鉱山の鉛か、あるいは銅・錫・鉛を溶かして作った、同一の地金を使った可能性が大きい。」

まったく、そのとおりである。
ここで佐原真氏が、「日本製の小型鏡の大多数」とのべているものは、「小形仿製鏡第Ⅱ型」をおもにさす。
この小形の仿製鏡について、考古学者森浩一氏は、「語りかける出土遺跡(『邪馬台国のすべて』[朝日新聞社刊]所収)のなかで、つぎのようにのべている。
「『長宜子孫』(長く子孫によろし)という銘を書きました内行花文鏡が後漢の後半の代表的な鏡ですが、それが北九州での三世紀ごろと推定される墓から点々と出ております。しかし、中国鏡だけではとても、すでに広がりつつあった鏡に対する愛好の風習はまかないきれないとみえまして、北九州の社会では、(中略)邪馬臺国がどこかにあった時代に、直径が8センチ前後の小型の銅鏡を多量に鋳造しています。」
(下図はクリックすると大きくなります)

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また、当時宮崎公立大学の教授であった考古学者、奥野正男氏は、その著『邪馬台国発掘』(PHP研究所刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「いわゆる『倭国の大乱』の終結を二世紀末とする通説にしたがうと、九州北部では、この大乱を転換期とし、墓制が甕棺から箱式石棺に移行している。
つまり、この箱式石棺墓(これに土壙墓、石蓋土壙墓などがともなう)を主流とする墓制こそ、邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる九州北部の国々の墓制である。」
北九州において、邪馬台国時代の墓制は、箱式石棺墓を主流としていた。そして、箱式石棺墓からは、「長宜子孫」銘内行花文鏡や小形仿(ぼうせい)製鏡(「仿」は「倣」と同じで、「まねる」意味。仿製鏡は、中国の鏡をまねしてつくった鏡の意味)第Ⅱ型といわれる鏡が出土している。これらの鏡が、邪馬台国の時代に、北九州で行なわれていたことは、確実とみてよい。(卑弥呼がもらった鏡としてよく話題にのぼる三角縁神獣鏡は、確実な三世紀遺跡からの出土例がない。確実に主張できるのは、四世紀の古墳から出土している例が多い、ということである。)

 

■鉛同位体比について
鉛の同位体206、207、208から、208/206の比を縦軸、207/206の比を横軸にしたグラフから日本の青銅器の鉛同位体比の分布を示すと下記のグラフとなる。

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直線Lは細形銅剣などや、初期の銅鐸である。
領域Aは「北中国」系の銅材料で前漢境、小型仿製鏡、初期後の銅鐸
領域Bは「南中国」系の銅材料で画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡などである。

銅鐸については下記のグラフとなる。
(下図はクリックすると大きくなります)
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上の4個のグラフにおける右上のグラフから、初期の銅鐸は細形銅剣や銅矛や銅戈と同じような分布となり、直線L上に分布する。
右下のグラフから、外縁付鈕1式銅鐸はまだ、分布が散らばっている。
これが、左上のグラフのように、外縁付鈕2式銅鐸になるとグラフの右上に大分集まってくる。
同じように、左下のグラフのように、扁平鈕式銅鐸でもグラフの右上に大分集まっている。

鏡も同じように集約してくる。前漢鏡は直線Lの上の方に集まって分布するこの領域が領域Aである。

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上の2個のグラフの下側のグラフから分かるように、前漢鏡の領域(領域A)から更に、小型仿製鏡Ⅱ型は更に狭い領域となる。参考にグラフの左の領域に三角縁神獣鏡の領域がある。この三角縁神獣鏡の領域が領域Bである。

 

下のグラフのように、近畿式銅鐸と三遠式銅鐸は更に集約して分布することが分かる。
(下図はクリックすると大きくなります)383-11



ここで、近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の鉛同位体比の分布を基準として、それ以前の青銅器の鉛同位体比分布がどのくらいその区間にあるかを「密集率」として百分率で示すと下記のグラフとなる。

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細形銅剣や、初期銅鐸の菱環鈕式銅鐸は0%で、外縁付鈕1式銅鐸は11.8%で、外縁付鈕2式銅鐸は25%で、扁平鈕式銅鐸は41.2%である。このように並べると、銅鐸の年代が、佐原真氏の示した年代順にあう。

銅鐸の分布範囲をグラフで比較すると下記となる。

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青銅器と中国の王朝とを比較した表が下記である。

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この表から、近畿式銅鐸や三遠式銅鐸を使っていた時代の本州と、広形銅矛や広形銅戈などを使っていた時代の北九州は、同じ時期と考えられるのである。その時代の幅の中で、北九州では小型仿製鏡Ⅱ型や、西晋鏡の時代でもある。
西晋が280年に呉を亡ぼしたので、南方の銅原料が西晋でも使えるようになる。そこで、西晋鏡は南中国系の銅原料となる。
その後五胡十六国による北方系の王朝の圧迫で西晋は東晋となり、南の王朝となる。

中国北方系の銅から南方系の銅への推移を表したのが下記表である。
(下図はクリックすると大きくなります)383-15

今まで説明したように、この表からも、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が南方系の銅材料であり、東晋時代であり、畿内を中心出土していることが分かる。


■箱式石棺
383-16茂木雅博氏の『箱式石棺』により、箱式石棺の、県別の出土状況をみると、右のグラフのようになる。
弥生時代のばあい、このグラフに示した以外の都道府県からは、箱式石棺は、出土していない。 グラフをみれば、広島県、山口県などの中国地方からも、箱式石棺がかなり出土していることがわかる。

 

さて、ここで、下の地図を、ご覧いただきたい。
地図は、近畿式銅鐸、三遠式銅鐸などの終末期の銅鐸の、県別出土数を示したものである。

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私は、拙著『邪馬台国は、銅鐸王国へ東遷した』(勉誠出版、2016年刊)で、ややくわしくその根拠をのべたところであるが、邪馬台国時代における畿内などは、なお、近畿式銅鐸、三遠式銅鐸などの行なわれていた時代であったと考える。
ここで、グラフと、地図とを見くらべると、つぎのような、やや重大なことに気がつく。

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・箱式石棺と終末期銅鐸との住みわけ
ほぼ邪馬台国の時代のころ、箱式石棺と終末期銅鐸とが、住みわけしているようにみえる。
すなわち、箱式石棺の行なわれている地域では、終末期銅鐸は、ほとんど出土しない。逆に、終末期銅鐸の行なわれているところでは、箱式石棺は、ほとんど出土していない。
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この箱式石棺と終末期銅鐸との住みわけ、対立は、じつは、北九州を中心とする「鏡の世界」と、島根県以東にひろがる「銅鐸の世界」との住みわけ、対立の状況を反映しているとみられる。
つまり、邪馬台国の時代、庄内式の時代において、畿内は、なお銅鐸の時代であったことをうかがわせる。当時、畿内が銅鐸の時代であったとみられることについては、拙著『邪馬台国は、銅鐸王国に東遷した』(勉誠出版、2016年刊)にくわしい。
ここで、もう一度、前の表(「鏡の世界」と「銅鐸の世界」は、「鏡の世界」に統一された)をご覧いただきたい。
この表は、代表的な四つの県、福岡県、島根県、奈良県、静岡県をとって、鏡と銅鐸との出土状況をみたものである(これについてくわしくは、さきの拙著『邪馬台国は、銅鐸王国へ東遷した』を、ご参照いただきたい)。

この表をみれば、「鏡の世界」と「銅鐸の世界」との対立は、結局、大和朝廷によって、鏡の世界に統一収斂(しゅうれん)していったようにみえる。
もし、もともと近畿を地盤とする勢力が、大和朝廷をたて、天下を統一したのならば、銅鐸の伝統が大和朝廷のなかに、残らないはずはないとみられる。
鏡の世界が、天下を統一したのは、大すじにおいて、『古事記』『日本書紀』などの伝承の伝えるように、九州勢力が、天下を統一したというような史実があったためとみられる。

もう一つの講演テーマの「神武天皇の東遷-長浜浩明氏の著書の検討-」は省略します。

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