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第376回 邪馬台国の会
卑弥呼の墓=箸墓古墳の検討


 

1.卑弥呼の墓=箸墓古墳の検討

■笠井新也氏などの説
現在、箸墓古墳を、卑弥呼の墓とする説が、「邪馬台国畿内説」をとる人々のあいだでかなりさかんである。
箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説を、はじめてとなえたのは、大正時代から昭和のはじめにかけて活動した考古学者、笠井新也(かさい しんや)氏である。
笠井新也氏は、基本的には那珂通世の説をうけいれながら、『古事記』の記す「諸天皇の没年干支」にもとづき説をたてた。

笠井新也氏について下記に示す。 370-14
1988~1956 考古学。徳島県立脇町中学校教諭。
1884年(明治17)6月22日、徳島県美馬郡脇町に生まれる。徳島県立脇町中学校を経て、1906年、国学院大学高等師範部卒業。徳島県立徳島高等女学校教諭。08年、徳島県女子師範学校教諭。11年、長野県立上田中学校教諭。12年(大正元)、大阪府池田師範学校教諭。15年、同退職。東京帝国大学人類学教室聴講生となり、鳥居龍蔵に考古学、人類学を学ぶ。19年、徳島県立脇町中学校教諭。33年(昭和8)、同教頭。39年、同退職。 徳島大学学芸学部講師として、上代史・考古学を講義。1956(同31)年1月10日没(73歳)。 邪馬台国大和説を唱えたことで知られる。

笠井新也氏は、卑弥呼に、『日本書紀』の「祟神天皇紀」に記述の倭迹迹日百襲姫をあてはめ、卑弥呼の墓に倭迹迹日百襲姫の墓とされる箸墓をあてはめる。
そして、笠井新也氏は、卑弥呼を「わが古代史上のスフィックス」とよび、およそつぎのようにのべる。

「邪馬台国と卑弥呼とは、『魏志倭人伝』中のもっとも重要な二つの名で、しかも、もっとも密接な関係をもつものである。そのいずれか一方さえ解決を得れば、他はおのずから帰着点を見出すべきものである。すなわち、邪馬台国はどこであるかという問題さえ解決すれば、卑弥呼が九州の女酋であるか、あるいは、大和朝廷に関係のある女性であるかの問題は、おのずから解決する。また、卑弥呼が何者であるかという問題さえ解決すれば、邪馬台国が畿内にあるか九州にあるかは、おのずから決するのである。したがって、私は、この二つのうち、解決の容易なものから手をつけて、これを究明し、その他、考えおよぶのが、怜悧な研究法であろうと思う。」(「邪馬台国は大和である」〔『考古学雑誌』第12巻第7号、1922年3月〕)

「思うに、『魏志倭人伝』における邪馬台国と卑弥呼との関係は、たがいに密接不離の関係にあり、これが研究は両々あいまち、あい援(たす)けて、初めて完全な解決に到達するものである。その一方が解決されたかに見えても、他方が解決しない以上、それは真の解決とは言いがたいのである。たとえば錠と鍵との関係のごとく、両者相契合[割符(わりふ)の合うように合うこと]して始めてそれぞれしい錠であり、正しい鍵であることが決定されるのである。」(「卑弥呼の冢墓と箸墓」『考古学雑誌』32〔1942年7月〕) 卑弥呼はだれか、という問題に正面からとりくんだことによって、笠井新也説は、大きな構造性を獲得した。

この「卑弥呼が何者であるか」を解決すれば、おのずから「邪馬台国はどこか」も解決できるという、笠井新也氏の見解と私(安本)の見解はほぼ一致する。

また、白石太一郎氏は『古墳の被葬者を推理する』(白石太一郎著、中央公論社、2018年)のなかで、倭王讃に応神天皇をあてる。応神天皇陵古墳の築造年代は5世紀の第1四半期にさかのぼるとする。応神天皇陵古墳については「被葬者が応神天皇である蓋然性はきわめて大きいと考えられる」とする。

応神天皇陵古墳の築造年代、および被葬者については、白石太一郎氏の見解と私(安本)の見解はほぼ一致する。

しかし笠井新也氏と白石太一郎氏の説から、結論が出てくるかというと出てこないと思う。


■年代から卑弥呼の推定
第31代用明天皇から、各天皇に至るまでの天皇1代の平均在位年数について調べると下記の表となり、10.13~10.95年になる。特に応神天皇が倭王讃であるとすれば、中国の文献から、413年~425年の存在であることが分かる。そして応神天皇~用明天皇の間は10.44年となる。
また、倭王讃の中国文献の記載も下記に示す。
(下図はクリックすると大きくなります)

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ここで、第50代桓武天皇を基準点Ⅰとして、第10代崇神天皇の活躍年代を推定することにする。そうすると年代が分かる天皇として、第31代用明天皇を基準点Ⅱとすれば、桓武天皇から用明天皇の期間と用明天皇と崇神天皇の期間では、推定する期間の方が長くなり、推定精度が下がることになる。そこで第15代応神天皇を基準点Ⅱにした方が、桓武天皇から応神天皇までの期間が長く、応神天皇から崇神天皇の期間の方が短くなるので、推定精度が増すことになる。

いづれの結果でも、崇神天皇は356年または365年の活躍年となり、卑弥呼の時代には合わない。
(下図はクリックすると大きくなります)


376-02

 

卑弥呼を天照大御神とし、応神天皇を基準点Ⅱとして、棒グラフの比較をする。
徳川時代及び現代は天皇一代22.69年となり、(中間の時代を略す)、飛鳥・奈良応神-敏達の時代は10.71年、応神-卑弥呼(天照大御神)の時代9.26年となり、時代が遡るに従い、短くなることが分かる。
376-03

 

次に、白石太一郎氏の説に従い、卑弥呼を倭迹迹日百襲姫として同じように、棒グラフで比較すると、応神-卑弥呼(倭迹迹日百襲姫・崇神天皇の次代に活躍)は35.20年となり、非常に大きな値となり、古代に向かって短くなる傾向と合わない。
(下図はクリックすると大きくなります)

376-04

 

これを折れ線グラフで示せば下記となり、卑弥呼=天照大御神であれば、確実な歴史的事実の延長上に収まるが、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫とすると、延長上に収まらなくなる。
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筑波大学 教授の経済学者、平山朝治氏は、最小二乗法といわれる統計的方法により、古代の天皇などの活躍時代についての区間推定(誤差の幅をつけた推定)をしておられる(『季刊邪馬台国』16号、1983年。)

最小二乗法というのは、上図のような傾向線に、もっともうまくあてはまる直線または曲線を求める方法である。
平山朝治氏は、第三十一代用明天皇から、奈良時代の終わりの第四十九代光仁天皇までのデータは、大略直線とみなせるとし、直線をあてはめる。
ただし、平山朝治氏は、各天皇などのデータとして、没年データではなく、即位年データを用いている。

結果は、下図のとおりである。この図をみればあきらかなように、卑弥呼の時代は、神功皇后、倭姫(やまとひめ)、倭迹迹日百襲姫(やまととひももそひめ)の時代と重ならない。年代的には、『古事記』『日本書紀』の伝える天照大御神の時代と重なる。

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図において、「95パーセントの信頼度」は、百回のうち95回ぐらいの確からしさで、その幅の中におさまることを示す。
同じく、「99パーセントの信頼度」は、百回のうち99回ぐらいの確からしさで、その幅の中におさまることを示す。

 

■卑弥呼と天照大御神の類似点
卑弥呼と天照大御神とは、活躍の時期が一致するばかりではない。つぎのような点も、よく一致するように思える。
(1)卑弥呼も天照大御神も、ともに女性である。

(2)天照大御神も卑弥呼も、ともに、宗教的権威をそなえている。

(3)ともに夫をもたなかったようである。

(4)卑弥呼には、弟がいたことになっている。天照大御神にも、須佐之男の命(すさのおのみこと)、月読の命(つきよみのみこと)という弟がいる。

(5)『古事記』には、「天照大御神、高木神の命(たかぎのかみのみこと)をもちて」などの記述がしばしばみられる。すなわち、高木神は、天照大御神といっしょに、しばしば、命令を下したりなどしている。『魏志倭人伝』の、女王のことばを伝えるために出入りしている一人の男と、高木神とが符合するように思える。

(6)天照大御神と須佐之男の命の争いは、卑弥呼と狗奴国の男王、卑弥弓呼との戦争に似ている。

(7)白鳥庫吉や和辻哲郎が指摘するように、卑弥呼の没後、大きな冢がつくられ、男王がたったが国中が服さず、戦いが行なわれ、宗女台与(壱与)がたって国中がおさまったという話は、天照大御神が、天の岩戸に隠れ、ふたたびあらわれたという話と符合する。

(8)『魏志倭人伝』には、人が死ぬと、他人は歌舞飲酒につく、とある。これは天の岩屋戸のまえで、天の字受売の命(あめのうずめのみこと)が、歌舞をし、諸神が、「歓喜(よろこ)び咲(わら)い楽(あそ)んだ」のと一致する。

(9)魏の天子は、卑弥呼に、「親魏倭王」の称号を与えている。卑弥呼は、「倭」の女王であった。いっぽう、『古事記』には、神武天皇を、神倭伊波礼毘古の命(かむやまといわれびこのみこと)と呼んだように、「倭」の文字がしばしばあらわれる。のちの時代、大和朝廷こそ「倭」であった。したがって、卑弥呼にあてるべき人物は、『古事記』『日本書紀』に記されている大和朝廷の関係者のなかから求めるべきであろう。とすれば、その関係者のなかで、まず、時代の合致する人が卑弥呼であると考えるのが、自然である。

(10)天照大御神は、大和朝廷の皇祖神である。卑弥呼は、邪馬台国の女王である。この大和と邪馬台の音が類似している。そして、この二人は、ともに、日本古代史上の最大のビッグーネームである。その事績は、人々の記憶に残りやすかったとみられる。そして、この二人の活躍の時代は、第十代崇神天皇の時代から、たかだか百数十年さかのぼるだけとみられるのである。

(11)卑弥呼の宗女、台与(とよ)にあたる人物[万幡豊秋津師比売の命(よろずはたとよあきずしひめのみこと)、豊日孁(とよひるめ)]を、わが国の史料に求めうる。

(12)『魏志倭人伝』に記されている「官名」と、よく似た音をふくむ神名が、『古事記』『日本書紀』の神代に、しばしばあらわれる。「弥弥(みみ)」と「忍穂耳(おしほみみ)」「八箇耳(やつみみ)」、「爾支(にき)」「卑狗(ひく)[こ]」と、「天邇岐志国邇岐志天津彦彦火瓊瓊杵(あめにきしくににきしあまつひこひこほににぎ)」「饒速日(にぎはやひ)」、「多模(たま)」(「模」の字の中国古代音は「ま」に近い)と「豊玉彦(とよたまびこ)」など。

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(13)『魏志倭人伝』には、「鏡」「玉・珠」「矛」のことなどが記されている。これらは、『古事記』『日本書紀』の神代の記述にしばしばあらわれるものである。五、六世紀以後の記紀の記事では、これらの事物は、神話の記事のばあいほど、大きな働きをしていない。

(14)『魏志倭人伝』は、「(倭人は、)骨をやいて卜(ぼく)する」と記す・神奈川県立博物館の神沢勇一氏の論文「日本における骨卜、甲卜に関する二、三の考察」(神奈川県立博物館研究報告『人文科学』第11号、神奈川県立博物館、1983年刊)によれば、わが国では、弥生時代は、シカ、イノシシ、イルカなどの骨が、卜骨として用いられていた。ウミガメの甲が、卜甲として出土するのは、古墳時代にはいってからのことであるという(下表参照)。『古事記』の神話にも、シカの肩甲骨をとってうらなう話がみえる。『魏志倭人伝』の記述、『古事記』神代の記述、考古学的な事実の三つがよく一致しているようにみえる。1956年という早い時期に、『魏志倭人伝』の現代語訳を出した島谷良吉(しまやりょうきち)(高千穂商科大学教授)は、その『国訳魏志倭人伝』の「前がき」のなかで、つぎのようにのべている。「陳寿編纂『魏志巻三十』所載の東夷の一人たる『倭人』の記述を見ると、まったく記紀神代の巻の謎を解くかのように思える。」
『魏志倭人伝』の記述と、記紀神代の記述との類似性はもっと注目されてよい。

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卑弥呼を、天照大御神とするばあい、私たちは、邪馬台国の位置を決定するための、あらたな鍵をもつことになる。すなわち、天照大御神が活躍した場所についての『古事記』『日本書紀』の記述がそれである。
中国がわの記述と、日本がわの記述とは、割符となって、一つの歴史事実を語っているようである。
図に書いてみれば、ほとんど、一目瞭然のようにみられることを承認せず、ことばだけによって、複雑な、しかし、実態とはあっていない議論が行なわれすぎているようにみえる。

 

■中国文献の記述とあっていない
笠井新也氏の説は、年代論以外にも、いくつもの問題をかかえている。
『日本書紀』の伝える倭迹迹日百襲姫についての記述は、『魏志倭人伝』や『後漢書』などの伝える卑弥呼についての記述と、基本的なところで合致していないようにみえる。「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」は、笠井新也氏の所説を出発点としている。「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」をとる人々は、このような点についても、なっとくのいく説明をしなければならない。
おもな点をあげれば、つぎのとおりである。

(1)『魏志倭人伝』と『後漢書』とは、卑弥呼が王になった事情を、つぎのように記している。
「その国は、もと男子をもって王としていた。倭国が乱れ、たがいに攻伐しあって年をへた。そこで、一女子を共立して王とした。名づけて卑弥呼という。」(『魏志倭人伝』)「倭国は大いに乱れ、たがいに攻伐しあった。歴年、主がいなかった。一女子があった。名を卑弥呼という。ともに立てて王とした。」(『後漢書』「東夷伝」)
『魏志倭人伝』には、卑弥呼の死後に、「更(あらた)めて男王を立てた(更立男王)」とある。「更」には、「加える」「入れかえる」「あらためかえる[更代(こうたい)]」の意味がある。「それまで、女性であったのをあらためかえて男王を立てた」意昧にうけとれる。
これらの文章によれば、もとは男子の王がいたが、卑弥呼が立ったときには男王がいなかったということになる。倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であるとすれば、当時は、男王崇神天皇がいたことになり、「歴年、主がいなかった」「あらためて男王を立てた」という『後漢書』「東夷伝」や、『魏志倭人伝』の記事と、はっきり矛盾することとなる。

(2)『魏志倭人伝』は、「親魏倭王卑弥呼」と記すなど、卑弥呼が倭を代表する王であることを明記している。これに対し、『古事記』『日本書紀』のどこにも倭迹迹日百襲姫が帝位についたとは記されていない。
倭迹迹日百襲姫は一人の巫女である。当時の天皇は崇神天皇である。卑弥呼は大陸までも名の通った倭の王である。これに対し、倭迹迹日百襲姫は倭王崇神の陰の存在にすぎない。両者では政治的な立場に大きな違いがある。

(3)倭迹迹日百襲姫は大きな宗教的権威をもっていたので、崇神天皇の名よりも倭迹迹日百襲姫の名だけが中国に伝わったのである、とする見解がある。もし、そうであるならば、以下のような疑問が出てくる。
① 外国へ使いを遣わすなどの政治的行動は、むしろ天皇にふさわしいものではないだろうか。『日本書紀』の記述をみても、倭迹迹日百襲姫は祭祀に関係はしていても、外交などとは関係なさそうである。
② 『魏志倭人伝』をみると、卑弥呼は三十ほどの国の盟主的な地位にあったようである。一人の巫女、倭迹迹日百襲姫の実像としては大きすぎはしないだろうか。『日本書紀』の記述では、政治的には直接的にタッチしていないようである。

(4)『魏志倭人伝』は、卑弥呼の死後、争乱があったことを記している。しかし、『日本書紀』では、倭迹迹囗百襲姫の没したすぐつぎに、『反(そむ)けりし者は悉(ふつく)に誅(つみ)に伏(ふ)す。畿国(うちつくに)には事無(な)し』という崇神天皇の言葉が現れる。また、「国内(くにのうち)安寧(やすらか)なり」とも、「天下(あめのした)大(おお)きに平(たいらか)なり」とも記されている。倭迹迹日百襲姫が没したために起きたとみられる争乱はない。

「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説」をとる人々は、しばしば、『魏志倭人伝』の卑弥呼即位前の「倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴(へ)ている(倭国乱相攻伐歴年)」という八文字ほどの記事を重視し、さまざまな解釈を行なう。すなわち、この乱のときに九州の勢力が大和に移ったなどの解釈である。

しかし、『日本書紀』には、倭迹迹日百襲姫のすぐ前の時代に、九州の勢力が大々的に移ったなどとは記されていない。わずか八文字の記事から出発した、自由な拡大解釈というべきである。
一方、「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説」をとる人々は、卑弥呼の晩年からその没後に起きたと『魏志倭人伝』に記されている争乱については沈黙する。『魏志倭人伝』の記事はつぎのようなもので、卑弥呼即位前の「倭国乱相攻伐歴年」よりも、その取り扱い方が詳しいというべきものである。
「倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼とは、(平)素から(平)和でなかった。
倭(国)では、載斯鳥越等をつかわした。(使者たちは)(帯方)郡にいたり、たがいに攻撃する状(況)を説(明し)た。(帯方郡)は塞曹椽史(属領諸郡の官職名)の張政らをつかわした。(以前からのいきさつに)よって、(使者たちは)詔書、黄憧をもたらし、拝して難升米に仮し、(また)檄(げき)[召集の文書、めしぶみ、転じて諭告する文書、ふれぶみ]をつくって、これを告諭した。卑弥呼は死んだ。大いに冢(つか)をつくった。径(けい)[さしわたし]は百余歩、徇葬(じゅんそう)者の奴婢は百余人であった。あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し(あっ)た。」『日本書紀』の「崇神天皇紀」には、中国からきた使者、張政のことや、魏の皇帝の詔書のことや、黄憧に関係したようなことを伝えたとみえる記事もない。卑弥呼と対立した狗奴国の男王卑弥弓呼にあたる人物についての記載もみあたらない。

(5)『魏志倭人伝』には卑弥呼を、「年すでに長大であるが、夫壻(ふせい)はない」と記している。一方、『日本書紀』には、倭迹迹囗百襲姫が大物主神(おおものぬしのかみ)の「妻になった」とも、「夫(せな)に語りて曰(いわ)く」とも記されている。
この点にも関連して、文献史料にも詳しい考古学者の森浩一氏は、つぎのように述べている。
「ヒミコは女王であったのにたいして、モモソ姫はそうではなかったのと、なによりもヒミコと『年すでに長大なるも夫壻なし』であるのに、モモソ姫は大物主神の妻であり、モモソ姫から見て大物主神は夫であった。『夫壻』は『夫婿』に同じ、夫のことである。
よく世間話に、『ヒミコの死と箸墓古墳の年代が近いとすると、箸墓はヒミコの冢でよい』という短絡というよりも杜撰(ずさん)きわまりない発言をする学者もいるけども、その場合は、まず倭人条のうえでのヒミコと崇神紀のモモソ姫とが、同じ人物であったこと、または倭人条の記述と重ねて創られた人物だということを証明しないかぎり、箸墓にはつながらない。ヒミコとモモソ姫との間の共通点についていえば、古代の支配層にいた予知能力者としての女性の共通点としてとらえることができそうだとぼくは考えている。」(『記紀の考古学』朝日新聞社、2000年刊)

以上のようにみてくると、第十代崇神天皇の年代は、天皇の平均在位年数からみても、『古事記』。『日本書紀』の記すところからみえる政治社会全体制からみても、前方後円墳の築造などにみえる考古学上の遺物などからみても、倭の五王の時代などの五世紀につながる近さをもっており、三世紀の卑弥呼の時代からは、やや離れていると判断せざるをえない。
崇神天皇の時代は、四世紀の中ごろとみるべきであり、崇神天皇の時代を邪馬台国の時代に重ねる白石太一郎氏らを中心とする見方は、大きな錯覚におちいっているとしか思えない。

 

■前方後円墳の築造時期を推定する
前方後円墳は、時代がくだるにつれ、後円部に比し、前方部が相対的に発達する。
前方後円墳においては、墳丘全長および後円部の径に比して、前方部の幅が、古い時代の前方後円墳ほど小さく、後代の前方後円墳ほど、大きくなる傾向がみとめられる。
いま、横軸(x軸)に、前方部の幅を後円部の直径で割った値、

[(前方部幅/後円部径)×100]
をとる。 

また、縦軸(y軸)に、前方部の幅を墳丘全長で割った値、

[(前方部幅/墳丘全長)×100]
をとる。

そして、天皇陵古墳や皇后陵古墳、さらに代表的な前方後円墳などをプロットすれば、下図のようになる。
(下図はクリックすると大きくなります)

376-09

このようなグラフを描くと、古い時代の古墳は全体的に左下に、新しい時代の古墳は全体的に右上にプロットされる。それは、時代がくだるにつれ、後円部に比し、前方部が、しだいに発達する傾向があるからである。
すなわち、墳丘全長および後円部の径に比して、前方部の幅が、古い時代の前方後円墳ほど小さく、後代の前方後円墳ほど大きくなる傾向がみとめられる。

上図によって、前方後円墳の大略の築造時期を推定できる。
たとえば、第十代崇神天皇陵古墳、第十一代垂仁天皇陵古墳、第十二代景行天皇陵古墳などは、左下の「四世紀型古墳群」のなかに位置する。崇神天皇の没年の推定値が、西暦360年ごろとなることはすでに前の図で示した。

第十五代応神天皇陵古墳、第十六代仁徳天皇陵古墳、第十七代履中天皇陵古墳などは、「五世紀型古墳群」のなかに位置する。第二十一代雄略天皇ころの古墳とみられる埼玉県の稲荷山古墳は、「五世紀型古墳群」のなかでも、ほとんど「六世紀型古墳群」に近いところに位置する。
第二十四代仁賢天皇陵古墳、第二十六代継体天皇陵であることが通説になりつつある今城塚古墳、第二十九代欽明天皇陵古墳などは、「六世紀型古墳群」に属する。第二十六代継体天皇のころの、西暦527年に反乱をおこした筑紫の国造(くにのみやつこ)磐井の墓とされる岩戸山古墳も、「六世紀型古墳」に属する。

全体的にみれば、上図の「前方後円墳築造時期推定図」は、各古墳の築造時期を、かなりよく弁別しているといってよい。

上図において、⑧などのような丸の中の数字は、その古墳の被葬者と一応されている人物が、ほぼ何代目の天皇と同時代になるかを示したものである。たとえば、岡山県の吉備の中山茶臼山(なかやまちゃうすやま)古墳は、1915年に宮内省からでている『陵墓要覧』では、吉備津彦の命の墓とされている。吉備津彦の命は、第七代孝霊(こうれい)天皇の皇子で、第十代崇神天皇の時代に活躍した人物である。したがって、中山茶臼山古墳のところには、⑧~⑩と記されている。

上図をみれば、およそつぎのようなことがわかる。
(1)古い代の天皇に関連した古墳は、おおむね左下にくる傾向があり、新しい代の天皇に関連した古墳は、おおむね右上にくる傾向がある。そしてこの傾向は、考古学の分野で一般にいわれている古い時代に築造されたと推定されている古墳と、より新しい時代に築造されたと推定されている古墳との関係に対応している。このことは、すくなくとも統計的にみたばあい、いわゆる天皇陵古墳が、古墳の築造年代推定のあるていどの基準になりうることを示している。また、当該古墳に、ある天皇などが葬られているという伝承には、あたらずといえども遠からずていどの信憑性のあることを示している。

(2)「円筒埴輪」が出土している古墳については、古墳名のそばに、「Ⅰ期」~「Ⅴ期」のどの期の「円筒埴輪」が出土しているのかが、ローマ数字で記されている。「Ⅴ期」の円筒埴輪の出土した古墳は、右上のほうにくる。「Ⅰ期」「Ⅱ期」の円筒埴輪の出土した古墳は、左下にくる傾向がある。すなわち、「古墳の形態」と「円筒埴輪の形式」という二つの別基準にもとづく古墳の築造年代推定編年が、ほとんど正確に合致している。その古墳がいつ築造されたかについての、円筒埴輪などにもとづく考古学的な推定年代と、天皇の一代平均在位年数約十年説による天皇の活躍時期についての統計的推定年代とが、大略合致している。このことは、その古墳に、伝承によって伝えられている被葬者が葬られている可能性を高めるものであろう。また、考古学的な年代推定の結果と、文献にもとづく統計的年代推定の結果との信憑性を、相互に高めるものであろう。

なお、上図作成のための古墳の計測値のほとんどは、大塚初重他編『日本古墳大辞典』(東京堂出版刊)に記されている値を用いた。『日本古墳大辞典』に記されていないものについては、近藤義郎編『前方後円墳集成』(山川出版社刊)によった。

 

■「三角縁神獣鏡」と「画文帯神獣鏡」との埋納盛行年代
下図には、「三角縁神獣鏡」を出土した前方後円墳の位置を示した。
(下図はクリックすると大きくなります)376-10

 

また、下図には、「画文帯神獣鏡」を出土した前方後円墳の位置を示した。
(下図はクリックすると大きくなります)376-11

これらの図をみれば、つぎのようなことがわかる。
(1)第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇、第十三代景行天皇の没年の推定値を、360年、370年、380年ごろとし、それを基準として、上の図二つをみれば、「三角縁神獣鏡」埋納の盛行年代は、四世紀中ごろから後半ごろであることがうかがわれる。

(2)上の図二つをみれば、「画文帯神獣鏡」埋納の盛行年代も、「三角縁神獣鏡」とさして変わらないことがわかる。じじつ、すぐ上の図をみれば、「画文帯神獣鏡」と「三角縁神獣鏡」が、同じ古墳から出土している例が、かなりみられる。「画文帯神獣鏡」は、五世紀型の前方後円墳からも、あるていど出土している。

三世紀に、北九州を中心に、「雲雷文内行花文鏡」や、「方格規矩鏡」など、魏系の鏡が、墓に埋納されている。
三世紀の末に、北九州を中心に、「位至三公鏡」や「蝙蝠紐座内行花文鏡」など、西晋系の鏡が、墓に埋納されている。

そして、四世紀になると、畿内を中心に「三角縁神獣鏡」や「画文帯神獣鏡」が、墓に埋納されている。

鏡を墓にうずめる習慣の、九州中心から畿内中心への移動は、年代からいっても、伝承内容からいっても、饒速日の命や、神武天皇などの東遷、東征の伝承と、かなりなていど符合しているようにみえる。

西暦317年に、東晋王朝が、中国の南の建康(南京)を都として成立する。
わが国で、「三角縁神獣鏡」や「画文帯神獣鏡」が盛行した年代は、大略この東晋(317~420年)の年代にあたる。

中国南方系の銅を原料とし、中国南方の神獣鏡系の文様をもつ「画文帯神獣鏡」や「三角縁神獣鏡」は、この中国南方の東晋王朝の影響をうけていると考えられる。
魏・西晋をうけつぐ中国王朝の都が、北の洛陽から南の建康(南京ふきん)へ移動したことと、わが国での鏡の分布の中心が、北九州から畿内へ移動することとが、対応しているようにみえる。また、わが国出土の鏡が、中国北方産の銅原料を用いるものから、中国南方系の銅原料を主として用いるようになることと対応しているようにみえる。

 

■考古学者、斎藤忠の見解
2013年に、百四歳でなくなった東京大学教授の考古学者であった斎藤忠は、以下のようにのべ、あるていどの根拠をあげて、箸墓古墳の築造年代を四世紀の後半とする。
斎藤忠は、まず、崇神天皇陵古墳について、つぎのようにのべる。
「今日、この古墳(崇神天皇陵古墳)の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ四世紀の中頃、あるいはこれよりやや下降することを考えてよい」
「崇神天皇陵が四世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇神天皇の実在は四世紀の中頃を中心とした頃と考える……」(以上、斎藤忠「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号、1966年刊)

崇神天皇についてのこの年代観は、天皇の1代平均在位年数にもとづいて、私がすでにのべた年代と、よく合致している。

斎藤忠は、さらに、箸墓古墳の築造年代について、つぎのように記す。
「『箸墓』古墳は前方後円墳で、その主軸の長さ272メートルという壮大なものである。しかし、その立地は、丘陵突端ではなく、平地にある。古墳自体のうえからいっても、ニサンザイ古墳(崇神天皇陵古墳)、向山(むかいやま)古墳(景行天皇陵古墳)よりも時期的に下降する。」

「この古墳(箸墓古墳)は、編年的にみると、崇神天皇陵とみとめてよいニサンザイ古墳よりもややおくれて築造されたものとしか考えられない。おそらく、崇神天皇陵の築造のあとに営まれ、しかも、平地に壮大な墳丘を築きあげたことにおいて、大工事として人々の目をそばだたてたものであろう。」(以上、「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号)。 376-12

斎藤忠は、崇神天皇陵古墳の築造の時期を、「ほぼ四世紀の中ごろ、あるいはこれよりやや下降する」と推定している。したがって、箸墓古墳の築造の時期は、ほぼ四世紀の後半にはいることになる。ここで、斎藤忠が、「丘陵の突端でなく、平地にある」「平地に壮大な墳丘を築きあげたことにおいて」と、箸墓が「平地」に築かれたものであることに触れていることは、留意する必要がある。

 

大塚初重・小林三郎共編の『古墳辞典』(東京堂出版刊)の「用語解説編」において、つぎのようにのべられている。
「(前期古墳は、)丘陵尾根上・台地縁辺など低地を見おろすような地形に立地し、前方後円墳・前方後方墳・双方中円墳・円墳・方墳などの種類がみとめられる。墳形をととのえるのに自然地形をよく利用しているのも前期古墳の特色である。」

箸墓古墳は、丘陵尾根上や台地縁辺などに築かれたものではない。平地に築かれたものである。あるいは、崇神天皇陵古墳よりも時代の下るものか。

箸墓古墳の前方部は、崇神天皇陵古墳よりも、あきらかに発達している。上図のとおりである。箸墓古墳の後円部の径は、157メートル。崇神天皇陵古墳の後円部径は、158メートル。1メートルほどの差で、ほとんど変わらない。(測定値は、『前方後円墳集成近畿編』[山川出版社刊]による。)

二つの古墳の後円部の径が、ほとんど変わらず(晋尺で、約650尺)箸墓古墳のほうが、前方部を発達させている。あるいは、箸墓古墳は、崇神天皇陵古墳を、参考にしてつくったものか。
かりに、崇神天皇陵古墳の築造時期が、箸墓古墳の築造時期よりも古いとすれば、崇神天皇陵古墳は寿陵(じゅりょう)[生前に建てられた陵]で、早めに造られたことなどが考えられよう。中国の前漢の陵墓の多くなどは、帝王の即位の翌年から着工されている(森浩一「卑弥呼の冢」[『ゼミナール日本古代史上』所収】参照)。

いずれにせよ、箸墓古墳を、卑弥呼の墓にあてる見解は、時代比定を、大きく誤っているものとみられる。

崇神天皇、景行天皇を、四世紀の後半の人とすれば、そのころの中国の王朝は、東晋の国(317~420)であった。晋の国は、西晋(265~316)、東晋にわかれるが、晋の国の時代の1尺は、約24センチであった。このモノサシではかるとき、つぎの四つの古墳の主軸長の長さには、一定の関係がみとめられる。
①崇神天皇陵古墳……242メートル(1000尺)……崇神天皇
②椿井大塚山古墳……190メートル(800尺)……武埴安彦
③吉備の中山茶臼山古墳……120メートル(500尺)……大吉備津彦
④備前車塚古墳……48メートル(200尺)……吉備の武彦

これらが、一定の規格性、共通の文化のもとに築造されていることは、明らかであるように思える。
そして、備前車塚古墳の被葬者を吉備の武彦とすれば、これらの古墳の被葬者たちは、大略同時代とみられる人たちとなる。

『日本書紀』の記載によれば、吉備の武彦は、備前車塚のある地が属した吉備の上つ道の臣(かみつみち)の祖である。

下の系図みれば、つぎのようなことがわかる。
(1)吉備の武彦は、景行天皇の時代に活躍した人である。いま、前の図により、崇神天皇の次代の景行天皇が、四世紀末ごろの人とすれば、吉備の武彦の活躍年代も、そのころと考えられる。

(2)武埴安彦は、崇神天皇の時代に反乱をおこした人である。前の図により、崇神天皇を、四世紀後半ごろの人とし、吉備の武彦と武埴安彦とが、いとこ同士であることを考えるならば、武埴安彦は、四世紀後半から、四世紀末ごろの人と考えられるが、どちらかといえば、360年ごろに近い人であろう。

(3)倭迹迹日百襲姫は、下図にみられるように、吉備の武彦や武埴安彦のおばさんである。 376-13

かつ、崇神天皇の時代に活躍した人である。
四世紀なかば、350年前後の人とみるべきであろう。
もし、倭迹迹囗百襲姫が卑弥呼ならば、わが国が、魏の国へ使をつかわしたこととか、魏の使が日本に来たこととかを思わせる記事が、『日本書紀』の「崇神天皇紀」などに記されそうなものである。しかし、そのようなことはない。このころは、もう、歴史時代にはいっているようにみえる。

 

考古学者の森浩一氏は、五世紀の古墳の築造年代について、つぎのようにのべる。もっともな意見である。
「古墳やその出土遺物にたいして、たとえば、”五世紀中ごろ”という推定を下す考古学者がいるとしても、それは相対的な年代観にすぎず、その年代の前後に約六十年の判断誤差をつけるべきだと考えている。」
「畿内の五世紀を例にとっても、なお前後に六十年程度の判断誤差がいるだろうという私の実感は、そのまま三世紀に適用してもよかろう。」(以上、『三世紀の考古学』上巻、学生社、1980年刊)

考古学的な方法によるばあい、年代推定に、かなりな幅をみなければならない。

筑波大学教授などであった川西宏幸氏による円筒埴輪による編年(下図)では、
(下図はクリックすると大きくなります)376-14

崇神天皇陵古墳は360年~400年となり、私の意見と合う。しかし箸墓古墳は崇神天皇陵古墳より古いとしている。それでま4世紀であり、卑弥呼の時代とはあわない。

いずれにしても、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説は無理があると言える。

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