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第366回 邪馬台国の会
内行花文鏡
前漢鏡~西晋鏡、その後


 

1.内行花文鏡

■徐苹芳氏の意見
中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、夔鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳鏡・獣首鏡・至位三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。至位三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」(『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊。傍線は安本。以下も同じ)

■元伊勢籠神社(もといせこもじんじゃ)の鏡
日本海側の丹後半島にある元伊勢籠神社に最古の系図があり、伝世した鏡が2面ある。
(下図はクリックすると大きくなります)。 366-01

そして、元伊勢籠神社からのパンフレットに以下が書いてある。

「伊勢神宮(いせじんぐう)には八咫鏡(やたのかがみ)がお祀りされています。この鏡は天孫降臨の際、天照大御神が「この鏡を私と思ってお祀りしなさい」と御孫(みまご)である邇邇芸命(ににぎのみこと)に授(さず)けられた、天照大御神が宿(やど)られている御神鏡(ごしんきょう)です。八咫鏡(やたのかがみ)は神武天皇から第九代開化天皇の御代まで、大和の宮中で天皇さまと同じところにお祀りされていました。

ところが第十代崇神天皇の御代に疫病が大流行して国民の半分以上が亡くなり、お百姓さんは離散して国中が乱れました。そのため天皇さまは神威(しんい)を畏れ恐(かしこ)まれ、宮殿にお祀りしていた天照大御神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を、天皇さまの皇女(ひめみこ)に託(たく)され、ご宮中の外で別々にお祀りすることにされました。天照大御神の宿る八咫鏡は崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託され、倭国笠縫邑(かさぬいむら)に神籬(ひもろぎ)を立ててお祀りされました。

次に崇神天皇三十九年(紀元前五十九年)に行かれた先は吉佐宮(よさのみや)と呼ばれる宮で、当社の奥宮である真名井(まない)神社のことです。吉佐宮では神代の時代から籠神社世襲宮司家が豊受大御神をお祀りしており、その由縁により、この地で天照大神と豊受大御神を並び併(あわ)せて、四年間お祀りしました。その後御神鏡は倭国(やまとのくに)、木乃国(きにくに)、吉備国へ遷(うつ)され、そして倭国の弥和(みわ)の御室嶺上宮(みむろのみねのかみのみや)へ遷(うつ)されたときに、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が「吾日足りぬ」とおっしゃり、第十一代垂仁天皇の皇女である倭姫命に天照大御神を託され、天照大御神がお鎮(しず)まりになるための永遠の土地を求める旅が始まりました。

倭姫命はその後二十ヵ所近くご巡幸になり、伊勢の地にお着きになった時に「この伊勢の国は、常世(とこよ)の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。この国に居たいと欲(おも)う」という天照大御神のお告げを受けられ、五十鈴川のほとりに大宮をお造りになりました。これが伊勢の内宮の始まりで、時は垂仁天皇二十六年秋九月甲子(きのえね)の年のことでした。

神代の昔から豊受大御神を奉斎してきた籠神社宮司家の始祖は天孫邇邇藝命(ににぎのみこと)の兄神である彦火明命(ひこほあかりのみこと)ですので、古代においては天照大御神・豊受大御神をお祀りすることのできたのは、天照大御神の血脈に繋がる家系と定められていたのでしょう。

天照大御神が伊勢に御鎮座になってから、遅れること四百七十八年、第二十一代雄略天皇の御代二十一年、倭姫命は「私(天照大御神)は一所にのみ居るのでは大変苦しく食事も安らかに戴(いただ)くことができません。丹波の国の与佐の小見(おみ)の比沼の魚井原(まないのはら)にいる道主(丹波道主)の子である八乎止女(やおとめ)のお祀りする御饌都神(みけつかみ)・止由気皇太神(とゆけすめおおかみ)を自分の許(もと)に迎えてほしい」という天照大御神のお告げを受けられました。

そのため倭姫命は大佐々命(おおささのみこと)を使(つか)いとして朝廷に参上させ、この旨(むね)を天皇さまにお尋ねしたところ「大佐々命を使いとして丹波国へ行き、止由居皇太神をお迎えにいくように」と仰せになられました。

そこで、物部の人等(ひとたち)が手置帆負(たおきほおい)・彦狭知(ひおざち)も二柱の神の後裔を率いて、斎斧(いみおの)や斎鍬(いみすき)を使って山材(みやき)を採(と)り始め、度会(わたらい)の山田原(やまだがはら)に大宮柱及び忌柱(いみはしら)を立て、千木が聳え(そび)え立つ大宮を建てました。

明年の秋七月七日、大佐々命や丹波道主の孫子等多くの神々が丹波国与謝郡(現・京都府宮津市)までお迎えに見え、止由気皇太神を伊勢の山田原の新殿に遷しになりました。これが伊勢の外宮の始まりで、時は雄略天皇二十二年戌午秋九月望(もち)の日のことでした。」

八咫鏡は下記のように、点々と持って歩かれ、伊勢神宮に祀られる。 366-02

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神宝邊津鏡(へつかがみ)[直径9.5センチ]前漢時代
籠神社歴代宮司家 海部(あまべ)氏伝世鏡

学名内行花文昭明鏡
寵神社歴代宮司家に伝かった海部氏伝世鏡。
この鏡には「内而清質以而昭而明而光而夫而日而月」と十七文字、ゴチック体で銘文があり、「この鏡の質は清純で、明るく照らし、光り輝く様は日月のようである」という意味である。日本ではこの鏡の類品が北部九州を中心として十面余り出土している。
邊津鏡の写真と拓本を下図に示す。

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神宝息津鏡(おきつかがみ)[直径17.5センチ]後漢時代~三国時代
籠神社歴代宮司家 海部氏伝世鏡

学名内行花文長宜子孫八葉鏡
この鏡には「長宜子孫」の銘文があり「長く子孫に宜し」という意味である。
日本ではこの鏡の類品が九州・中国・近畿・東海の古墳から二十面余り出土しているが、当社宮司家の二面の鏡は出土鏡ではなく伝世鏡であり、海部宮司家当主から次の当主へと継承していく鏡である。
息津鏡の写真と拓本を下図に示す。

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元伊勢籠神社の内行花文鏡
丹後の国一の宮の元伊勢籠神社は「お伊勢様のふるさと」と呼ばれる。そこに伝世されている鏡は、内行花文鏡である。とすれば、伊勢神社に伝えられている鏡、すなわち八咫の鏡も、内行花文鏡であろうか。

・邊津鏡と同じ内行花文昭明鏡の出土地
1 佐賀県神崎郡東背振村三津永田 甕棺墓
2 佐賀県神崎郡上志波屋 箱式棺墓
3 佐賀県三養基郡上峰村 二塚山 甕棺墓
4 佐賀県三養基郡上峰村 堤 甕棺墓
5 佐賀県杵島郡北方町 椛島山 箱式棺墓
6 長崎県上県郡峰町櫛 ムコガザイケ
7 福岡県春日市須玖岡本 D地点
8 福岡県福岡市博多区 宝満尾四号墳
9 福岡県朝倉郡夜須町 東小田字峰
10 福岡県田川市鉄砲町 箱式棺墓
11 広島県山県郡千代田町 勝負峠八号土壙墓
12 京都府宮津市字大垣 海部家伝世

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・息津鏡と同じ長宜子孫内行花文鏡の出土地
長宜子孫内行花文鏡の方は類品が、九州、中国、近畿、東海の各地の古墳からの出土例がある。例えば、佐賀県三養基郡上峰村一本谷石棺墓、唐津市桜馬場弥生時代後期遺跡、福岡県糸島郡二丈町銚子塚、同郡前原町平原古墳、尼崎市塚口池田山古墳、天理市柳本町天神山古墳、岐阜市鴬谷瑞龍寺、松阪市清生町茶臼山古墳などである。
本品も、古墳の副葬品であったかもしれない可能性もある。(樋口隆康「海部氏伝世鏡について」[『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』改訂増補版、元伊勢籠神社社務所2012年刊]

■今回は特に内行花文鏡について論ずる。
・内行花文鏡(ないこうかもんきょう)とは、考古学関係の辞書には下記のように書いている。
後漢鏡の一種で、内区の主文に半円弧形を連ねた内行花文を配したもの。八花文を基本とするが、六・七・九花文のものもあり、特に日本の古墳時代の彷製鏡には花文数が5・6・7・9のものがある。後漢鏡のなかでもっともオーソドックスなものである。
また、この呼び方は日本独自のもので、中国では連弧文鏡と呼ぶ。平縁・半球鈕をもち、内行花文の外側に有節松葉文をめぐらす。鈕座には四葉座・蝙蝠座・円座があるが、鈕座と内行花文との間に「長且子孫」「寿如金石佳且好」などの銘文を入れることが多い。前漢末の内行花文をもつ清白鏡から派生し、後漢代を通じて三国時代まで製作された。日本では弥生後期から古墳時代にかけて、集落や墓址、古墳の副葬品を含め、出土例が多い。

注:この有節松葉文は雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡(うんらいもんちょうぎしそんめいないこうかもんきょう)などにあるが、蝙蝠座・円座などにはない。

2.前漢鏡~西晋鏡、その後

(Ⅰ)前漢鏡
前漢は秦の次の時代で、右下の歴代の中国王朝年表年代を参照。まずは前漢の時代に盛んだった鏡についてのべる。 (右下図はクリックすると大きくなります) 366-07

(1)清白鏡(せいはくきょう)366-08

前漢鏡の一種で、銘帯にゴシック体・楔形(せっけい)体・小篆体などの文字で「絜清白而事君・・・」などの銘文があることからこの名がある。平縁・半球鈕で、内区に内行花文をもつものと銘帯が2帯(重圏)になるものとがある。前漢でも末期に製作された鏡式で、「居摂元(AD.6)年」の紀年をもつものは、その下限の一端を示している。弥生時代中期後半に舶載された銅鏡の代表的な形式である。
上の図は福岡県飯塚市立岩10号甕棺出土鏡。


(2)昭明鏡(しょうめいきょう)[明光鏡(めいこうきょう)]366-09

中国・前漢鏡の1型式で、銘帯に楔形体・ゴシック体によって「内清質以昭明光輝象夫日月」という銘文を入れることからこう呼ばれる。異体字銘帯鏡に含まれ、昭明鏡ともいう。平縁・半球鈕をもち、面径11~12cmほどのやや小形のものである。内区は内行花文鏡となりその外側に銘帯がまわる。前漢中期に日光鏡とともにあらわれ、前漢末期に盛んにつくられた。日本では弥生中期後半から後期前半の甕棺の副葬品として出土することが多い。

上の図は佐賀県神崎郡東背振村三津永田遺跡(弥生時代後期前葉)石蓋甕棺墓出土鏡(「辺津鏡」にかなり近い)。

 

(3)日有鏡366-10

左の図は福岡県飯塚市立岩10号甕棺墓出土鏡。

 

 

 

 

 

(4)日光鏡(にっこうきょう)366-11

前漢鏡の一種で、銘帯に楔形体によって「見日之光天下大明」などの銘文を入れていることからこう呼ばれ、いわゆる異体字銘帯鏡の1群に含まれる。平縁・半球鈕の鏡で、面径は5~8cmと小形である。内区は内行花文となり、その外側に単圏の銘帯をもつ。銘文の文字間に渦文や菱形文を入れる。前漢中期にあらわれるが、末期になって盛んにつくられた。日本では弥生中期後半から後期前半の甕棺の副葬品として出土し、年代を知る手がかりとなっている。

上の図は福岡県飯塚市立岩堀田遺跡出土、甕棺に密着していた。

 

 

・昭明鏡であるが、内行花文のないもの366-12

左の図は福岡県飯塚市立岩堀田遺跡28号甕棺から出土。

 

 

 

 

 

・異体字銘帯鏡(いたいじめいたいきょう)
前漢鏡のうち、銘帯を主文様としたものの総称。このなかには清白鏡・日光鏡・明光鏡・昭明鏡が含まれる。樋口隆康によって提唱された語。これらの鏡が鏡式と銘文とが必ずしも一致しないことから、その独特の書体に着目したうえで、それらを一括して異体字銘帯鏡と呼び、そのなかで鏡式によって分類し、銘文の配合によって型式を設定していこうというもの。銘文と書体の組合せにバラエティーの多いこの種の鏡をまとめる名称として利点がある。

以上述べたのが、邪馬台国時代の前の時代である前漢時代のものである。

(Ⅱ)後漢鏡・魏鏡
後漢とその後の魏の鏡について述べる。この時代の鏡が、日本に来る時間も考慮して、邪馬台国時代の鏡と考えられる。また、後漢と魏の時代の鏡は区別しにくいところもある。
366-13

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


寺澤薫氏の庄内式期の出土鏡の表が参考になる。(表の掲載は省略)
その表を私がグラフにまとめたものが下記である。
366-14

このグラフから、内行花文鏡と方格規矩鏡が圧倒的多い。そしてこの鏡が「卑弥呼の鏡」と考えられる。

奥野正男氏や小山田宏一氏が作成したグラフでも庄内式土器の時代の鏡は同じように、内行花文鏡と方格規矩鏡が圧倒的多い。

366-15

更に四葉・八葉鈕座内行花文鏡、方格規矩鏡の出土数を見れば、北九州が圧倒的に多く、奈良県は少ないかほとんどない。
(下図はクリックすると大きくなります)

366-16

・雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡(うんらいもんちょうぎしそんめいないこうかもんきょう)と蝙蝠鈕座内行花文鏡(こうもりちゅうざないこうかもんきょう)がある。どちらも「内行花文」「長宜子孫銘」があり、共通しているところもあるので、中国の徐苹芳氏などはこれを一緒に扱って議論している。しかしこの二つは分けた方がよい。
(下図はクリックすると大きくなります)

366-17


雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡は魏の時代の鏡で、中国の北の方の銅原料を使っている。一方、蝙蝠鈕座内行花文鏡は晋の時代の鏡であり、中国の南の銅の原料を使っている。

平原遺跡の雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡を下記に示す。
(下図はクリックすると大きくなります)

366-18

 

・平原遺跡の鏡の取り扱いが同じ畿内説の学者でも違う。

小山田宏一「三世紀の鏡と『おおやまと古墳群』」(伊達宗泰編『古代「おおやまと」を探る』学生社2000年刊所収)による表がある。(表の掲載は省略)

この表は平原遺跡の内行花文鏡と方格規矩鏡を庄内式土器の時代に入れているが、前に述べた寺澤薫氏は庄内式土器の時代より前としており、庄内式土器の時代に入れていない。

また、『シンポジウム三角縁神獣鏡』(学生社2003年刊)で小山田氏、岡村氏など畿内説の方々が議論をしてる。

小山田
平原が一世紀後半であれば時間幅があり連続しがたいともいえますが。庄内式から布留式まで下がってくると、平原鏡の製作技術が古墳時代に引き継がれているのかどうか解決する必要がある。岡村説に立てば、私は平原が古墳に近接することから、金属原型をつかった製作技術が古墳時代に引き継がれていてもおかしくないと思う。

福永
古墳時代の日本列島の青銅器作りのなかに金属原型は連続していくと。

小山田
そういう意味でなくて、平原を評価するときは平原の年代によって評価が変わる。それが一世紀の後半ぐらいであれば、断絶があるわけですから当然つながらない。ところが、庄内式、布留式ぐらいの三世紀代と仮に考えるとすれば、日本の内行花文鏡とか、仿製鏡とか、あるいは三角縁神獣鏡を出してしまったら問題なんですが、そういうものとの連続的な見通しも出てくるのではないか、ということなのです。ですから、年代によってそれは大きく変わってくると思います。

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小山田
紀年銘鏡に関しては、紀年銘は正しいと考えますから、何らかの交通関係があったことは確かだと思います。そういう意味で評価しなければいけない。とくに、そのなかの景初三年、景初四年というのは、卑弥呼が朝貢した年、あるいはその次ということですから、これはたぶん「銅鏡百枚」に入ってしかるべきだろうと思います。
ただ、その他の三角縁神獣鏡に関しては、ぼくは三世紀後半に作られたと考えますから、それは含みません。それ以外の「銅鏡百枚」ですが、その候補は三世紀の第2四半期であるところの土内式ぐらいの鏡が、「銅鏡百枚」の候補としていちばん有力であろうと思います。

福永
具体的にはどういう鏡ですか。いろいろな鏡が庄内式併行段階にもあると思いますが。

小山田
鏡の製作年代からみて、萩原1号墳墓・ホケノ山墳墓の画文帯同向式神獣鏡、平原墳墓の方格規矩四神鏡などを一応「銅鏡百枚」と推定しています。

福永
平原にたくさんある方格規矩鏡ですか。陶氏作とか。

小山田
そうです。

福永
あそこにはかなり枚数がありますね。百枚のうち、かなり平原が持っている。

小山田
三十何枚行っていますね。

岡村
じゃあ邪馬台国は?(笑)

小山田
鏡分布の中心、儀礼の発信の中心、纏向型前方後円墳の拡散を考えて 邪馬台国は畿内です。伊都国(平原)のところに大量に送らなければいけない事情があったというように想像します。

岡村
では、方格規矩鏡だけを伊都国のほうに?

小山田
そうですね。

岡村
石川の分校カン山古墳や宿東山古墳(しゅくひがしやまこふん)などの方格規矩四神鏡も考えておられるんでしょうが、ほとんどは伊都国にあげた?

小山田
そういうことを考えれば、瀬戸内、近畿の周縁部の方格規矩四神鏡があり、近畿地方を中心に、いまのところ数は少ないですが、画文帯神獣鏡が分布する構図です。


以上のように、小山田氏は平原遺跡は一世紀の後半ではなく三世紀代と考える可能性を示している。
また、後で述べるようにホケノ山は四世紀代の要素が多く出ているのに対し卑弥呼の時代にしている。畿内説の考えから平原遺跡の鏡は畿内から持って行ったとして、方格規矩鏡が奈良県から一枚も出ていないのは、全部平原へ持って行ったことにしている。最初から平原にあったとした方が素直な考え方である。このように、畿内説ではあちこちをつぎはぎにして、つじつまが合わない議論を展開している。

 

宮崎公立大学の教授であった考古学者、奥野正男氏はのべる。
「平原出土の方格規矩四神鏡が後漢晩期のものであるとすれば、共伴の大形国産鏡の製作年代の上限もまた三世紀代におくことが可能である。この三世紀代はまさに卑弥呼の時代に相当し、一墳墓で副葬された鏡の数においても、日本最大の大形国産鏡という点でも、平原遺跡は日本の古代史上さいしょの女王である卑弥呼の墓にふさわしい。」(奥野正男著『邪馬台国はここだ』【奥野正男著作集I、梓書院、2010年刊】209ぺージ)

奥野正男氏は、また、「卑弥呼の鏡は。後漢鏡、その墓は平原である」(『季刊邪馬台国』第2号、梓書院、1979年刊)という論文も、発表しておられる。


吉野ヶ里遺跡を発掘したことで著名な高島忠平氏は、断言的な表現をさける形でではあるが、つぎのように記している。
「(平原王墓の被葬者としては、)『魏志倭人伝』に出てくる卑弥呼もその被葬者の候補の一人として考えていいのではないかと思っています。」(「近畿説はありえない[『研究最前線邪馬台国』〈朝日新聞社、2011年刊〉」所収)

この文章は、すくなくとも、高島氏が、平原王墓と卑弥呼とが、時期的に重なりあうとみておられることを示している。


福岡大学の考古学者、小田富士雄氏らも、『倭人伝の国々』(学生社、2000年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「平原(王墓)になると、これはもう邪馬台国の段階に入っています。」

考古学者の北條芳隆氏(現、東海大学教授)はのべる。
「いわゆる邪馬台国がらみでも、(旧石器捏造事件と)同じようなことが起こっている・・・・・近畿地方では、古い時期の古墳の発掘も多いが、邪馬台国畿内説が調査の大前提になっているために、遺物の解釈が非常に短絡的になってきている。考古学の学問性は今や、がけっ縁まで追いつめられている。」(『朝日新聞』2001年11月1日)

庄内式土器の時代の鏡は誰が作ったグラフでも九州が圧倒的に多い。また方格規矩四神鏡の例を示す。
(下図はクリックすると大きくなります)366-19

・ホケノ山古墳の築造年代
ホケノ山古墳については、正式な報告書『ホケノ山古墳の研究』(2008年刊)が、橿原考古学研究所の編集・発行で出ている。

その中に、ホケノ山古墳の築造年代について、奥山誠義氏の報告がのっている。366-20奥山誠義氏報告文の要点を、紹介しよう。
奥山誠義氏は、そこで、「最外年輪を含むおよそ12年輪の小枝」試料二点の測定値を示しておられる。奥山氏は、その報告書で、この二点の試料については、「古木効果の影響を考慮する必要は無い」、「小枝については古木効果の影響が低いと考えられるため有効であろうと考えられる」と記す。すなわち、測定対象としての妥当性をもっていることを記しておられる。
その二点の炭素14年代測定値を示すのが表である。

この表は、奥山報告書にのっているもの、そのままである。
この表をよくご覧になられよ。
「1σ(しぐま)」の暦年代範囲(西暦年推定値)の下にアンダーラインが引かれている。このアンダーラインは、安本が引いたものではない。奥山報告書にあるもの、そのままである。
すなわち、この二点の小枝試料によるとき、二点とも西暦年数推定値の過半は、「四世紀」であることを示している。
さらに、奥山報告書によれば、これらに二点の小枝試料から推定される西暦年の分布は下図のようになっている。

366-21

上図のうえに、方眼紙をあてて面積を求めれば、二点の小枝試料によるとき、推定西暦年が300年以後、つまり、四世紀である確率は、上図に示すように、68.2%および84.3%となる。
  つまり、「ホケノ山古墳の築造年代は、四世紀である」と主張しても、その主張が正しい確率は「70%~80%」ていどとなる。


(Ⅲ)西晋鏡
・蝙蝠鈕座(こうもりちゅうざ)「長宜子孫(ちょうぎしそん)」銘内行花文鏡(めいないこうかもんきょう)、位至三公鏡(いしさんこうきょう)

洛陽晋墓出土の「位至三公鏡」の写真と拓本を下図に示す。
54基の墓から、24面の鏡が出土している。そのうち8面が、「位至三公鏡」である。
この墓群からは、太康8年(287)、元康9年(299)、永寧2年(302)の墓誌が出土している。年代のほぼきめられる墓として重要である。(報告書「洛陽晋墓的発掘」『考古学報』1957年第1期による。)

366-22

洛陽衡山路(こうざんろ)西晋墓出土の「位至三公鏡」と「蝙蝠鈕座内行花文鏡」(直径は、(g)が8.8cm、(h)が12.9cm)を下図に示す。
『洛陽衡山路西晋墓発掘簡報』(『中原文物』1987年第3期)は、この墓を、西晋(265~316)早期のものとする。「位至三公鏡」と「蝙蝠銀座内行花文鏡」とが同じ墓から出土している。このことは、この二つの形式の鏡が、ほぼ同じ時期に行なわれていたことを示している。

366-23

「位至三公鏡」と「蝙蝠鈕座内行花文鏡」とは、ともに下図に示すように
(1)中国では、洛陽ふきんを中心に分布する。
(2)わが国では、北九州を中心に分布する。
(3)しばしば、同じ遺跡から出土する。
(4)鉛同位体比の分布が近い
(5)洛陽晋墓からも、ともに出土しているので、墓誌により年代がある程度推定できる。

「位至三公鏡」と「蝙蝠鈕座内行花文鏡」の中国と日本における分布は下図を参照。
(下図はクリックすると大きくなります)

366-24

これらの鏡は中国では洛陽付近、日本では北九州を中心に分布する。

日本での出土数と、鉛同位体比は下図を参照。
(下図はクリックすると大きくなります)

366-25

そして、「位至三公鏡」と「蝙蝠鈕座内行花文鏡」の鉛同位体比はほぼ同じで、中国・長江中流域湖南省桃林鉱山鉱石に近い。
そして、画文帯神獣鏡にも近い。

 

(Ⅳ)西晋後の鏡
・画文帯神獣鏡
西晋時代の次の東晋時代の鏡は画文帯神獣鏡となる。西晋鏡が洛陽付近から出てきたのに対し、画文帯神獣鏡は揚子江流域の方から出てくる。日本でも西晋鏡が北九州から出てくるのに対し、画文帯神獣鏡は畿内の方から出てくる。

366-26

画文帯神獣鏡の図形は「位至三公鏡」と「蝙蝠鈕座内行花文鏡」とは違い半円、方形の図が描いてある。
(下図はクリックすると大きくなります)

366-27



そして、面径の分布を調べると、中国での直径の分布は小さく平均13.2cmである。それに対し、日本では直径の平均は16.8cmと大きくなる。しかも日本の直径分布は14~15cmと20~21cmにピークを持つ二つの山となる。

366-28

この小さい面径の分布は中国の面径分布に近いので、日本の小さい面径の分布は中国からの舶載鏡の可能性が考えられる。また平原遺跡の大型の内行花文鏡や方格規矩四神鏡の例から、大きい方の分布は三角縁神獣鏡に近く日本で作られたと考えられるのではないか。

福岡県における鏡の形式の変遷と墓の形式の変遷
(下図はクリックすると大きくなります)

366-29

前漢鏡は甕棺、後漢鏡は甕棺と箱式石棺の両方から出るが、箱式石棺の方が多い。西晋鏡になると、箱式石棺と古墳の両方から出てくる。画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は古墳から出土する。
このように、埋納される墓制の変化から、時代の変遷による鏡の形式が分かる。

 

画文帯神獣鏡の鉛同位体比と面径
下の表から銅原料を産出する中国の五部鉱山と桃林鉱山の鉛同位体比と画文帯神獣鏡の鉛同位体比を示す。例として大阪の黄金塚古墳から出土した景初三年紀年銘鏡(画文帯神獣鏡)は桃林鉱山鉱石に近い鉛同位体比である。
(下図はクリックすると大きくなります)366-30


画文帯神獣鏡の鉛同位体比366-31

画文帯神獣鏡は直径が小さいものと大きいものとでは鉛同位体比が分かれる。
小さいものは五部鉱山、大きいものは桃林鉱山に近い。

魏呉蜀の三国時代と東晋の時代の地図がある。
中国の銅鉱山は沿岸部の五部鉱山と内陸部の桃林鉱山である。
(下図はクリックすると大きくなります)

366-32

 

始めの頃は沿岸部の黄岩五部鉱山の銅を使い、その後内陸部で揚子江沿いの桃林鉱山の銅を使うようになった。

 

全国出土の鏡の大きさ(面径)ランキングベスト10
平原王墓出土鏡の面径の大きさは、全国出土の五千面近くの鏡を圧倒する。
1. 福岡県平原王墓      内行花文八葉鏡    46.5センチ
2. 福岡県平原王墓      内行花文八葉鏡    46.5センチ
3. 福岡県平原王墓      内行花文八葉鏡    46.4センチ
4. 福岡県平原王墓      内行花文八葉鏡    46.2センチ
5. 福岡県平原王墓      内行花文八葉鏡    推定46センチ以上
6. 山口県茶臼山古墳     鼉竜(だりゅう)鏡   44.5センチ
7. 奈良県柳本大塚古墳    内行花文鏡      39.7センチ
8. (出土地不明)        鼉竜鏡         38.8センチ
9. 奈良県下池山古墳     倣製内行花文鏡   37.6センチ
10. 大阪府紫金山古墳     勾玉文鏡       35.7センチ

ここで、鼉龍鏡(だりゅうきょう)は仿製鏡の一種で、内区主文様が4乳によって分割され、そこに半肉彫の獣形文を中心とした文様を配したもの。獣形文は蟠龍と考えられる首の長い表現のものである。大形・中形・小形があり、面径が小さくなるにしたがって文様表現が便化していく傾向がある。画文帯神獣鏡を原鏡として仿製したと考えられるが、大形鏡が多い点、三角縁神獣鏡との関連も強い。古墳時代前半期に製作され、西日本を中心に分布する。

このように、大型面径のものは国産鏡である。

 

この中で、「画文帯神獣鏡」「画文帯仏獣鏡」で、面径の大きいもの上位十面について、調べてみる。
(下図はクリックすると大きくなります)

366-33

拙著『大崩壊「邪馬台国畿内説」』(勉誠出版刊)で、わが国出の135面の「画文帯神獣鏡」の面径を示した。この135面のなかから面径の大きいもの、上位十面をとりだし、その出土地などを示せば、上表のようになる。

表をみれば、つぎのようなことがわかる。
(1)面径の大きいもの上位十面のうち、半数以上をしめる六面が、「仏獣鏡」である(番号を、マルでかこんだもの)。

(2)これらの「仏獣鏡」は中国の揚子江中・下流域系の鏡である。かつ、わが国では、古墳時代の中・後期(五世紀~六世紀)ごろの遺跡から出土しているものがほとんどである。邪馬台国問題と結びつけるには、中国での出土地域からみても出土遺跡の年代から考えても、無理がある。つまり、卑弥呼のために特鋳したために面径が大きくなったと考えるには、無理がある。

(3)表の「仏獣鏡」のうち、③、④は、大略同型鏡といえるものである。①は、その仿製鏡(ほぼあきらかな、メイド・イン・ジヤパン鏡)である。あらたに、外区と縁をとりつけたため、径が大きくなっている。筑波大学の川西宏幸氏は、その著『同型鏡とワカタケル』(同成者、2004年刊)のなかで、「踏み返したさいに、新たに外区と縁を添付して鏡面の拡張をはかり・・・」と記す。
表に「参考・旧蔵品」としてかかげた大阪府から出土したと伝えられる駒ヶ谷鏡も、③④の仲間の鏡である。
また、表の⑦⑨⑩の三つは、また別の同型鏡のグループをなすとみられる(川西宏幸著『同型鏡とワカタケル』参照)。
わが国でのみ、このように面径の大きい鏡が、グループとして出土し、中国では、このように面径の大きい仏獣鏡は、まったく出土していない。中国で鋳造され、わが国に輸入されたものであるならば、中国からも、この種の大型仏獣鏡がすこしは、出土してもよさそうである。

「仏獣鏡」は、卑弥呼に与えた鏡とは。一応、無関係と考えられる。

このように面径の大きい仏獣鏡の同型鏡が、グループとして、わが国から出土する状況は、江田船山古墳出土鏡と同型の面径の大きい「画文帯神獣鏡」が、わが国からのみ26面も出土する状況と似ているように思える。

(4)わが国で出土した「画文帯神獣鏡」のうち、五番目に面径の大きい奈良県丸塚古墳出土の「画文帯神獣鏡」は、『古鏡集成』(学生社、2005年刊)に、「仿製鏡」「倭鏡」と記されているものである。つまり、メイド・イン・ジャパン鏡である。『古鏡集成』は、「中国鏡にある画文帯対置式神獣鏡を手本にしたと考えられる。」とも記している。奈良県の丸塚古墳からは、他にも、「メイド・イン・ジャパン鏡」とみられるものが出土していることは、この本の70ページにのべられている。

(5)わが国で出土した「画文帯神獣鏡」のうち、八番目に面径の大きい奈良県の藤ノ木古墳出土鏡についても、わが国で、同型鏡が出土している。そして、中国からは、このように面径の大きい、画文帯神獣鏡の同型鏡は、まったく出土していない。

つまり、表にかかげた鏡のほとんどは、「メイド・イン・ジャパン鏡」であることが、強く疑われる根拠をもつ。
表のなかの、「『景初三年』銘画文帯同向式神獣鏡」も、以上のべてきた文脈のなかで理解される必要があるのではないか。

今日は前漢鏡から画文帯神獣鏡まで内行花文鏡を中心に説明をした。

今回は話せなかったが、小形仿製鏡や仏獣鏡については別途細かく述べたい。

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