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第363回 邪馬台国の会
北部九州における神武天皇伝承 (河村哲夫先生)
人文データサイエンス入門(第2回)神武天皇の東征年代


 

1.北部九州における神武天皇伝承 (河村哲夫先生)

【Ⅰ】プロローグ
363-42 1.豊の国
(1)「投馬国」
「水行20 日」の距離にあり、「5 万余戸」の人家があり、長官は「彌彌(ミミ)」、副官は「彌彌那利(ミミナリ)」

(2)投与国とみる説あり⇒「豊」の国
東九州地域に所在


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(3)卑弥呼の宗女「壹與(いちよ)」(魏志倭人伝)
『梁書』『北史』などでは「臺與(とよ)」⇒「豊」

(4)豊前の国第一の霊山は「英彦(ひこ)山」
①比古山・日子山・彦御山―→彦山(819 年)―→英彦山(1729 年)
②祭神に関わる伝承
・北岳・・(もと大国主命・宗像三女神)―→天忍穂耳命(主祭神)
・南岳・・ ― イザナギ(輔弼神)
・中岳・・ ― イザナミ(輔弼神)
中岳の山頂から山腹にかけて英彦山神宮(主祭神:天忍穂耳命)の上津宮・中津宮・下津宮がある。
なお、産霊(むすび)神社(英彦山山頂付近)を高皇産霊尊鎮座の故地とする伝承がある。

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(5)天照大神の御子は「天忍穂耳命」で、その妃は高皇産霊尊(高木神)の娘の「万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめ)」→「豊」の姫
中国と日本の文献情報が、「卑弥呼と臺與=天照大神と万幡豊秋津師比売命」で一致し、「豊の国」を指し示しているようにみえる。
(下図はクリックすると大きくなります)
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このように、英彦山を中心に伝承が多くある、豊の国には天照大神の次の世代の人たちがうごめいている。

 

2.英彦(ひこ)山について
大きな流れとして、紀元前に奴国が勃興し、後漢より金印をもらう。その後倭国大乱が起こり、筑後川流域に天照大神の国ができる。列島を征服する、日向方面開拓のため、東の豊の国へ移動せざるをえなかった。
(1)英彦山の位置
福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町にまたがる標高1,199m の山

(2)日本三大修験山
羽黒山(山形県)・熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられ、山伏の修験道場として古くから武芸の鍛錬に力を入れ、最盛期には数千名の僧兵を擁し、大名に匹敵する兵力を保持していた。

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(3)古代・中世の英彦山の神領――「七里結界」(約30 キロ四方)

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(4)「大行事社」
①『太宰管内志』(伊藤常足)
「上代、彦山に領じたり地には、其神社を建て限とす。是を七大行事ノ社と云。
其今も残れり。七大行事と云ふ」

②神領の境界に配置された「七大行事社(山麓大行事社)」
「大行事社」は、弘仁13 年(822)神領七里四方に48 か所に設けられ、「山内大行事社」「六峰内大行事社」「七大行事社(山麓大行事社)」「各村大行事社」から成り、高皇産霊尊(高木神)を主祭神として神領内に配置された。
㋐山内大行事社(四土結界地内大行事社)・・英彦山内に5 社
㋑六峰内大行事社・・豊前国内の主要山岳(求菩提山・等覚山・松尾山・蔵持山・檜原山・福智山)に6 社
㋒七大行事社(山麓大行事社)・・七里四方の神域に7 社
㋓各村大行事社・・七里四方の神域内の村々に30 社
計48 社

③明治以降、基本的に「高木神社」と改称
英彦山神宮産霊社と六峰内大行事社を除いた大行事社は、明治維新以降、多くは「高木神社」と改称し、合祀されたり、場所が分からなくなった。
(下図はクリックすると大きくなります)363-06

④現在の七大行事社(山麓大行事社)と各村大行事社(高木神社等の分布

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(5)山伏たちの修行の道⇒山の民の道
金剛界・・真言密教の概念
大日如来の智徳はすべての煩悩を打ち砕く。
胎蔵界・・大日如来は胎児のように慈悲をふり注ぐ。
(下図はクリックすると大きくなります)363-08

 

(6)御潮井採り(毎年2月末日):英彦山~行橋市の沓尾海岸(九里八丁39キロ)
年に一度行われる行事がある。このルートが古代のルートと考えられる。
(下図はクリックすると大きくなります)363-09

 

 

【Ⅱ】神武天皇
1.神武天皇の東遷経路・・記紀では福岡県の内陸部の記載なし
下記が一般的なルート、なぜ岡田宮へ寄ったのか。

 

2.福岡県の内陸部に残された神武天皇伝承
(1)『古事記』『日本書紀』では遠賀川河口の「岡田宮(崗水門)」のみ
ところが、福岡県の内陸部に神武天皇の伝承地が数多く残されている。
(下図はクリックすると大きくなります)363-11

 

(2)京都郡の草野の津(行橋市)に上陸
(下図はクリックすると大きくなります)363-12

 

(3)田川郡
①油須原(田川郡赤村油須原)
神武天皇が通過したと伝えるその昔、天忍穂耳命がここを拠点に周辺を統治したという(『福岡県神社誌』大日本神祇会福岡県支部 昭19)。神功皇后・景行天皇伝承も残る。

②英彦山(田川郡添田町)
・神武天皇は日向から天村雲命を派遣して天忍穂耳命を祭った。
・その後、英彦山山頂から筑紫の地勢を見て、川に沿って田川郡に下ったという。

③帝階(ていかい)八幡神社(田川郡川崎町田原字宮山の正(しょう)八幡宮)
社伝によると、神武天皇はこの地に滞在し、猪を狩猟した【猪膝、猪尻(井尻)、猪鼻】。神武天皇は父母・祖父母・兄弟と居を営み、この川を「高日﨑早日川」といい、川崎という地名になったという。

④烏尾(からすお)峠(田川郡糸田町・飯塚市頴田)
一羽の烏に導かれ、悪天候のなか無事峠を越えることができた。

(4)嘉麻郡
⑤厳島神社と牧野神社(飯塚市鹿毛馬)
・厳島神社・・祭神は宗像三女神
・牧野神社(相殿合祀)・・祭神は狹野尊(神武天皇)・大山積命・保食命(うけもちのみこと)・倉稻魂命(うかのみたまのみこと)

○『高千穂問題と神武天皇聖蹟』河野桐谷著(南画鑑賞会・昭和15)
・風雨のなか目尾山を越えようとする時、蓑笠をつけた一人の翁がやってきて、目尾山は昔、比売神(宗像三女神)が宇佐から宗像に向かうときに滞在された由緒ある地なので祭祀を行うよう進言した。そこで、天皇が山に登って比売神を厚く祭ると、たちまち風雨がやんだ。
・西北の方向に多くの馬が見えたが、それは翁の放馬であった。翁は足白の駿馬を献上したいと申し出たが、その馬が足鍬(くわ)をつけたまま駆け出した(鹿毛馬の由来)。翁が別の馬を献上しようとするとその馬もまた山に向かって駆け出した。馬を探して山の麓に着くと、逃げた馬が草を食っていた。神武天皇はそれを見て、「馬見ゆ」といった(馬見の由来)。
・神武天皇は馬見山の麓に社を建て、比売神(宗像三女神)と天照大神を祭った(厳島神社の由来)。

⑥天降八所(あもりはっしょ)神社(飯塚市佐與)
○社伝によると、この付近の道路がぬかるんで歩行困難であったので、駒主命が別の道を案内し、宗像三女神の霊蹟を目指し、目尾峠(飯塚市目尾)へ迂回して、強石(ごうせき)明神(宗像三女神)を祭った。この付近一帯は宗像三女神の霊蹟という。
・目尾山にいたとき、一羽の霊鳥が飛んできて松の梢にとまり、「伊邪佐(いざさ)、伊邪佐、伊邪佐」三声啼いたので、天皇は神の使いと考え、鳥を尾行すべしと命ぜられた。その霊鳥の降りた所を鳥居又は鳥尾といい鳥尾大明神と崇め祭った。
・ここから西南に進むうち、天皇の気分が悪くなったので、侍臣の中臣種子命は椎根津彦とともに杉の神木に祈ったところ天皇は回復した。その杉を魂杉とい、神武天皇・椎根津彦・駒主命を併せ祀って「魂杉(たますぎ)大明神」と称した。この場所が「天降八所神社」で、佐與という地名は、天皇が会話中に「左様か」といわれたからである。

⑦目尾(飯塚市目尾)
宗像三女神の聖蹟

⑧皇祖神社(飯塚市鯰田)
祭神は玉依姫・品陀和気命(応神天皇)・息長足媛命(神功皇后)
○社伝
神武天皇が目尾山から沼田(鯰田)に達したとき、道案内の駒主命がはるか雲間に見えるのが竈門の霊峰(宝満山のこと)と奏上したので、天皇は諸皇子とともに丘の上から竈門の神霊を祭ったという。
沼田(鯰田)の丘を発し、立岩付近に到着したとき風雨が起こり、進軍することができなくなった。

⑨撃皷(げきこ)神社(飯塚市中)
馬見物部の駒主命が一族を率いて、田川の吾勝野で神武天皇一行を出迎えて足白の駿馬を献上し、道案内を申し出たが、この地において風雨のため前に進めなくなり、八田彦は白旗山山頂の天照大神を祭るよう進言した。すると、天照大神は筑紫国を抑えた後に近畿に向かうよう告げたという。

⑩立岩(飯塚市立岩)
・熊野神社(飯塚市立岩字浦の谷)
○立岩で神武天皇は激しい風雨に襲われ、祖先の神々に祈ると天から雷光とともに巨岩が降ってきて大地に突き立って雨がやみ、戦いに勝ったという。
○八田彦とその一族が神武天皇らを出迎え、鉾を河中に突立て浅瀬の標として、無事に渡ることができた。また、雷雨にわかに起こり、天地鳴動し、巨岩疾風の如く飛来して、この山頂に落下した。すると岩上に神現れて「我は天之岩戸神、名を手力男神と言う。巨岩をなげうってこの地の悪鬼を誅す。これよりわが和魂はこの岩上に留って筑紫の守護神たらん。また荒魂は天皇の御前に立ちて、玉体を守護す」と告げた。そこで神武天皇は駒主命に命じて厚く祭らせた。
天皇は八田彦の案内で遠賀川を渡り、片島の里に上陸した。
・王渡、徒歩渡、鉾の本、勝負坂等の地名あり。
・立岩神社(飯塚市立岩)
落ちてきたとされる巨岩が御神体とされている。

⑪伊岐須(いぎす)(飯塚市伊岐須)
・伊岐須神社(飯塚市伊岐須)
神武天皇が天照大神とスサノオを祭った。よって神武村、神武山という。
・高宮八幡(飯塚市伊岐須)
神武天皇が滞在したためこの地を神武という。
このとき大屋毘古の裔の八田彦が多くの一族とともに出迎えた。神武天皇は八田彦の進言に従い、天照大神を東北の岩戸山に祭り、小石をこの山の頂に衛立て素戔嗚尊を祭った。よってこの村を神武村、山の名を神武山という。

⑫宝満神社(飯塚市平恒)
天皇は八田彦の案内で、潤野の地に進み、改めて天祖の御霊を祭った。その地は「姿見」といい、「日の原」ともいう。このとき天照大神から「九州平定後東征すべし」との託宣を受けた。

⑬上山田(嘉麻市上山田)
・射手引神社(嘉麻市上山田)
社伝によると、筑紫鎌の山田の庄の東北に帝王山(擂鉢山)がある。昔、神武天皇東征の時、豊前宇佐から阿柯(赤村)の小重に出でて、猪位金村の兄弟山に登ってニニギノミコトを祭り、西方に向かうとき、この山路を通られたので神武山という。天皇は嘉麻から野谷の里(宮野村)に入り、そこの山に高木の神を祭ったという。
・高木神社(嘉麻市上山田下宮)
神武天皇東征の時、宇佐島より田河あたりを経て筑紫の国の岡田宮に向かう途中、山田村からこの村を過ぎて、みずから神産霊大神を祭られた。よってこの山を神武山という。今神山というのは略称である。

⑭足白(あしじろ)(嘉麻市馬見)
鹿毛馬村(飯塚市頴田町)で神武天皇が乗ろうとした馬が、馬見山に入るのをこの地で見送った(『福岡県地理全誌』)。
馬見山・・ニニギノミコトが日向高千穂から足白の馬で天降ったとき、供奉した天の物部25 部のうち、馬部物部が住んだという(『嘉穂郡誌』)。

⑮宮野(嘉麻市宮吉)
神武天皇がこの地を通過した。

(5)穂波郡
⑯高祖神社(飯塚市高田)――もと高田神宮皇祖廟
○高祖神社社伝
「天皇は高田に進み、八田彦の伴った田中熊別に迎えられ、根智山の打猿を討伐するため、高田の丘から田中熊別と椎根津彦に命令を下された。この地に神武天皇と玉依姫を祭ったのが高祖神社である」
○高田神宮皇祖廟社伝
「玉依姫尊と神武天皇を祭る、大山祇命の裔の田中熊別が天皇を出迎えた」
「熊別は椎根津彦とともに賊を平定する決意を述べた。椎根津彦が総大将となり、内野の川上で賊軍を打ち破り、これを追撃した。その勝報が高田丘に伝わったので、天皇は山口に進軍した。その間に打猿は捕らえられて斬首された。
この誅戮の地を打首といい、今なまって牛頸という」

ルートは下記地図参照
(下図はクリックすると大きくなります)363-13

 

3.伝承の重層性
(1)神功皇后の足跡との類似
(下図はクリックすると大きくなります)363-14

 

(2)景行天皇の巡幸経路

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(3)御笠郡における神武天皇伝承
(下図はクリックすると大きくなります)363-16

 

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①竈門山(御笠山・宝満山)
祭神は玉依姫。海神の女で鵜草葺不合尊の妃となり、神武天皇を産んだ。

②王城神社(太宰府市通古賀)
神武天皇が大野山(四王寺山・王城山・大城山)に城を構え、事代主と武甕槌命を祭って幣帛を捧げて祈念したという(『福岡県の神社』(海鳥社))。王城山という名は、神武天皇の城が置かれたことによるという。

③筑紫郡大野(大野城市)の伝承
神武天皇は大野の邑(大野城市)に赴き、田中の庄で、邑長荒木武彦の奉迎を受け、筑紫郡の諸豪族を鎮撫し、荒木武彦の案内で、宇美に進み、同時に四王子山(王城山)に使いを立て、山上に武甕槌尊を祭って王城の鎮守としたという。

(4)糟屋郡における神武天皇伝承
①宇美八幡宮(糟屋郡宇美町)
宇美八幡宮の神官は、荒木武彦および荒木島主の末裔で、代々「神武(こうたけ)」姓を名乗った。宇美の地には、荒木や神武原(じんむばる)(糟屋郡宇美町宇美大字神武原)などの地名もある。
若杉山で天祖に祈り、糟屋郡を巡幸し、箱崎の地に至り、箱崎宮を創建し、住吉神社と志賀海神社を訪ね、大綿津見の海神族を慰撫したのち席内村(古賀市筵内)に向かったという。

②若杉山の太祖宮(篠栗町若杉)
祭神はイザナギで、神武天皇創建という。『筑前国続風土記拾遺』によれば、太祖神社下宮の鳥居の額には、「神武聖皇帝」と書かれていたという。

③鷺白(さぎしろ)山の熊野神社(古賀市大字筵内)
神武天皇が船を海浜につなぎ、この山上の石に腰掛け、四方を展望したという。腰掛石が残っており、大小二石あることから「夫婦石」とも呼ばれている。
田中熊別がここまで従軍し、別れを告げたとき、天皇は柳の木を折って杖を授けたという。

(5)宗像郡における神武天皇伝承
①神武(じんむ)神社(福津市津丸字裏谷)
神武天皇の陣跡という。

②神武神社(福津市赤間)
吉武地区の吉留にある八所宮の神が赤馬に乗って神武天皇を迎えたことから「赤馬」と名付けられ、それが転じて「赤間」となったという。

③宗像大社(宗像市田島)
神武天皇は、内殿の王子神社で天神を祭ったという。

④八所宮(宗像市吉留)
八神が顕現し、赤馬に乗り人民を指揮して皇軍を先導したという。

(6)遠賀郡・鞍手郡における神武天皇伝承
①若宮八幡宮(宮若市水原)
神武天皇は地盤の固い片島の地に入り、直ちに付近の丘に登って天祖の御霊を祭ったという。その地を壇の上といい、その祭祀の地を嚢祖の杜(嚢祖八幡・飯塚市宮町)という。

②八所宮(中間市中尾)――惣社神社
祭神は大己貴大神・稻田姫命・素盞嗚命・天照大神・神武天皇が祭ったという。

③一宮神社(北九州市八幡西区山寺町)---元王子神社
神武天皇が滞在した宮という。

④岡田神社(北九州市八幡西区岡田町)――もと岡田ノ宮
この地に留まり、天地神祇(八所神)を祭ったという。

⑤神武天皇社・崗水門顕彰碑(遠賀郡芦屋町)
岡田宮跡と伝える。「神武天皇崗湊顕彰碑」が建てられている。

 

4.「天の岩戸」における高皇産霊神の絶大な権力
「天の岩戸」でまつりごとをする5人の神々において、思金命、天太玉命は高皇産霊神の子であり、天手力男命、天宇受賣命は高皇産霊神の孫である。高皇産霊神の一族が主催するお祭りである。天児屋命が祝詞をあげているが、これは奴国の後継者ではないか。
天太玉命による忌部氏は九州出身と思われるが、出自が分からない。

これが、万幡豊秋津師比売命が天照大神の後継者としたおまつりである。

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5.天の岩戸から神武東遷に至る各氏族の役割

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(1)鞍手郡・宗像郡の伝承
(下図はクリックすると大きくなります)363-20


(2)東遷したニギハヤヒと物部氏のルーツ

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6.神武天皇伝承に登場する人物
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(1)天村雲命
①「籠神社勘注系図」(京都府宮津市)などによる系譜
天村雲命が宗像三女神とかかわりがあることが分かる。

 

(2)天種子命
①『日本書紀』巻第三 神武天皇即位前紀 甲寅年十月辛酉条
神武天皇の東征の際に菟狭津媛を妻とする。

② 『古語拾遺』神武天皇段
神武天皇は天種子命に命じて天罪・国罪の事を祓わせた。その事は詳しく中臣の祓詞(はらえのことば)にある。そして霊畤(まつりのにわ)を鳥見山の中に立てた。

③『先代旧事本紀』巻第七「天皇本紀」神武天皇元年正月庚辰朔条《神武天皇元年1 月1 日》
天種子命は天神の寿詞(よごと)を奏した。即ち神世の古事の類がこれである。

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(3)椎根津彦命
①倭国造(倭直部)の祖
神武天皇東征の際、速吸門で水先案内を務める。『日本書紀』では天皇が勅で椎の棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。
大和では、神武天皇に献策し、兄磯城を挟み撃ちにより破った。

②阿曇(あずみ)の海人族
椎根津彦命は振魂命の孫にあたる。
百足足尼命は景行天皇の水先案内であった。

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(4)荒木武彦
『新撰姓氏録』には「荒城朝臣。大中臣朝臣同祖。津速玉命三世の孫天児屋根の後なり」とある。のち神武(こうたけ)を名乗り、宇美八幡宮の神官となる。

(5)駒主命・・馬見物部の末裔

(6)八田彦・・嘉麻郡の地方豪族。大屋毘古の末裔。

(7)田中熊別・・大山祇命の末裔。

(8)打猿・・穂波郡の地方豪族。神武軍に抵抗して討伐された。

 

7.玉依姫の御陵
〇『筑前国続風土記附録』・・御陵の宝満宮(福岡県大野城市中1丁目)
これによると、景行天皇、神功皇后、斉明天皇が訪れている。

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2.人文データサイエンス入門(第2回)神武天皇の東征年代(安本先生)

■神武天皇の東征年代
363-43天皇の代と没年または退位年の関係を下記グラフに示す。

天皇の没年または退位年についてのくわしいデータは、このシリーズの拙著『倭王卑弥呼と天照大神伝承』(勉誠出版、2003年刊)にのせられている。

この程度のグラフなら、人が線を結んで、予測できるが、与えられたデータにうまくあてはまる直線、曲線などを求める方法に最小二乗法がある。

 

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辞書によると、「最小二乗法は」下記のように書いてある。
[最小二乗法]
最小自乗法とも書<、(英:least squares method)、測定で得られた数値の組を、適当なモデルから想定される1次関数、対数曲線など特定の関数を用いて近似するときに、想定する関数が測定値に対してよい近似となるように、残差の二乗和を最小とするような係数を決定する方法、あるいはそのような方法によって近似を行うことである。


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最小二乗法の適当なモデルに、直線をあてはめるか、二次曲線をあてはめるか、などは、あらかじめ、決めなければならない。あてはまりの良さのていどは、「決定係数」という指標によってはかることができる。「決定係数」は、相関係数の二乗である。

直線と2次曲線のあてはめは右のようになる。

[直線をあてはめるばあいの具体例]
3点(1,1)(2,3)(3,4)から最小二乗法の直線を作成する場合の例
公式はいたって簡単で、公式にあてはめれば解ける。

y=1.5x-0.33

となる。

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更に決定係数の計算をおこなう。


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相関係数は0.98となり、1に近く、相関が高いことが分かる。
決定係数は0.96となる。


次に2次曲線の公式を右に示す。
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具体例は省略。

 

 

■神武天皇時代の年代について、各学者の推定
・白井郁男(いくお)氏の推定
「古代天皇の退位時期の推定」(『季刊邪馬台国』44号、1991年)
白井郁男(いくお)[1961年、東京まれ。東京大学大学院理学系研究科博士課程中退。JR東日本。]
退位時期がほぼ確実に正しいと思われる第29代欽明天皇の退位年月から、第123代大正天皇迄の退位年月を用いた。ただし、北朝の天皇のものはデータとして採用しなかった。
仮説:「天皇の代数が後になっても、在位月数は増加する傾向にない」(帰無仮説)
対立仮説:「天皇の代数が後になるほど、在位月数は増加する傾向にある」

その結果:仮説は危険率0.02%で棄却される。
以上の帰結として「天皇の代数が後になるほど、在位月数は増加する傾向にある」あるいは「上代に遡るほど、天皇の在位期間が短くなる傾向にある」と言ってよいことになる。
結果は下記表を参照。
(下図はクリックすると大きくなります)363-31

 

・吉井孝雄氏による推定
「在位年数の増加率を考慮した古代天皇在位時期推定モデル」(『季刊邪馬台国』8号、1981年)
結果は右下の表となる。

・小沢一雅氏による推定
363-32小洋一雅(おざわ かずまさ)[1942年大阪市生まれ。大阪大学基礎工学部卒業。同大学院修了(工学博士)。専門は情報工学(パターン情報学)。大阪電気通信大学教授。]
『卑弥呼は前方後円墳に葬られたか 邪馬台国の数理』(雄山閣、2009年刊)
結果は下記の表となる。
363-33

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



・平山朝治氏「女王卑弥呼の年代」 -最小二乗法による推定-(『季刊邪馬台国』16号、1983年)
推定結果は下記表となる。

363-34

 

・安本の推定値

階差・公比数列の分析による古代年代論

表8 直線(例 y=2x)
1次階差が一定

表9 2次曲線(例 y=2x↑2)
2次階差が一定

表10 指数曲線(例 y=2↑x)
公比が一定

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これを天皇の没年グラフに当てはめると下記の、図10「2次曲線」、図11「指数曲線」のようになる。
(下図はクリックすると大きくなります)363-36

 

しかし、最初に示した天皇の代と没年または退位年の関係のグラフは直線に、あてはまっているであろうか。
363-37

吉井孝雄氏の方法では、大きくみて、右図のようなグラフに、直線をあてはめ、それを積分した形で、二次曲線をもとめ、その二次曲線を図にあてはめたものとみることができる。

右下の表をご覧いただきたい。表をみれば、1次階差は、あきらかに、現代に近づくにつれ増大していている。つまり右図のグラフは直線的に増大しているわけではない。また、2次階差も増大している。
右図のグラフは2次曲線的に増大しているわけでもない。

さらに、右下の表のカッコ内に示したように、公比も現代に近づくにつれ増大している。 つまり、右上のグラフは、指数曲線的に増大しているわけでもない。

 


363-38

そこで、右上のグラフは、在位年数の平均値から一定数Cを引けば、それは指数曲線的に増大していっているものと考える。(式で書けば、y=ae↑bx+cを考える)。

右表において(5世紀~8世紀)については、一部に、年代が確実とはいえない天皇の時代をふくむ。(年代がかなり確実となるのは、478年に、中国の宋へ使をつかわした第21代雄略天皇以後ごろ。)
そこで、以下9世紀~20世紀の天皇のデータで考える。

下の表14の値をもとに、(5~8世紀)の天皇の平均在位年数は、10.5146年とし、(1~5世紀)の天皇の平均在位年数は9.6366年として、その没年が歴史的にまず確実な第31代用明天皇の没年587年から順にさかのぼれば、神武天皇の没年の推定値は西暦283年ごろとなる。

363-39

この結果は、下の最終表の諸氏の求めた結果と、ほとんど変わらない。
なお、天皇の平均在位年数のグラフ図に、y=ae↑bx+cをあてはめることは、最初に示したグラフに、指数曲線と直線との合成変数を考えることと同じことである。
(y=ae↑bx+cを積分した形の式になる。)

Y=直線+指数曲線
  =Ax+B+Ce↑dx

363-40

 

以上、まとめると
下記の表になる。

363-41

この表で一番当てはめるのは一番下と考えられる。しかしこの結果と他との差は小さい。

神武天皇についての推定年代は283年ごろになる。

まさに、この結論は、最初のグラフから推測すれば、結果が一致するということで、最初のグラフからエミュレートしたものと考えられる。

【注】
「エミュレート」(emulate)[模倣する]
「主観や価値判断を加えずに物事を推測する」こと。機械的に推定する。データに語らせる。言葉による解釈、判断をなるべくさける。」

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