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第361回 邪馬台国の会
血脈の古代史
年代論について


 

1.血脈の古代史   足立倫行

■『血脈の古代史』(足立倫行著、ベスト新書)のまえがきより
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それでは、神武の即位はいつなのか? 宝賀さんは古代天皇の在位期問を推計するため、天皇の世代数とその世代の即位者の数の二つの要素を組み合わせ、最小二乗法を利用した年代推定式を考えた。
 Yi=a+bGi+cΣNi
aは定数、bとcは係数。特にaは第一世代(神武)の即位年。Yiはi世代に属する天皇のうち最後に即位した天皇の没年(次の世代の最初の天皇の即位年ともなる)。
Giは神武代を第1世代とした時の第i世代。Niは第i世代の天皇即位者の数。
まず没年がほぼ確定している古代史上の天皇に第29代欽明(571年没)を選び、諸天皇の世代確定は東大史科編纂所や宮内庁書陵部所蔵の系図史料などで行い、神武の5世孫に崇神、その孫に応神を置く形に修正した。その後も世代検討と推計式計算を繰り返した結果が次の式である[なお基礎データとして第30代敏達(びたつ)から第64代円融(えんゆう)の世代までの崩御年を採用]。
  Yi=174.7+13.0Gi+7.8ΣNi
つまり、神武即位は175年ということになる。世代推定値は、神武世代=175~196年頃、崇神(含む開化)世代=302~331年頃、応神(含む仲哀)世代=380~406年頃。この他、ある世代に属する天皇の数が一人の時に平均在位年数が約21年(≒13.0+7.8×1.6)、二人の場合は約29年(≒13.0+7.8×2)となるが、仁徳以前では1世代の天皇即位者が約1.6人なので、平均在位年数は約25年(≒13.0+7.8×1.6)になり、体験的な1世代実年数の約25年とも整合している。
「神武の在位期間が19年とすると、大和入り後に生まれた第2代綏靖の即位も19年弱。その綏靖が8年余の治世で崩御したのなら、次の第3代安寧は綏靖の子ではなく弟ということになり、本当は直系相続ではなく、傍系相続だったとわかります。系図の見直しは神武以前にも遡ります。記・紀においては、神武は降臨したニニギの曾孫と伝えられていますが、古代諸氏族の系図との世代対比をすると、中臣・忌部・久米氏のいずれでも、天孫降臨随行者と神武東征関係者は祖父と孫の世代関係にあり、ニニギと神武の関係も曾孫ではなく孫世代。つまり神武の父はナギサ(ウガヤフキアエズ)ではなく、ナギサの父とされるホオリ(ヒコホホデミ)が妥当となります」
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宝賀さんは日本の古代氏族は大まかに3族から成ると言う。縄文系で土着の山祇(やまづみ)族(中臣氏、大伴氏など)、中国・江南からきたタイ・越人系の海神(かいじん)族(阿曇、三輪氏など)、中国の山西省付近から朝鮮半高南部を経由してきた東夷系の半猟半農の種族で天皇家となった天孫(てんそん)族(天皇家、物部氏など)。
1世紀前半頃に日本列島に渡来した天孫族は、山祇族の協力を得て筑後川中流域に部族連合国家(邪馬台国)を造った。その後北方に進出し、福岡平野を拠点とした海神族の奴国と抗争。
2世紀前葉に奴国を屈服させ、怡土(いと)・早良(さわら)地区に支分国の伊都国を創設(これが国譲りと天孫降臨)。その後2世紀後半に邪馬台国で王位を巡る争乱が起きると、伊都支分国の庶子・神武は兄らと新天地を求め、少数部隊を率い東方へ向かった(神武東征)。
「トーテムは、動植物を祖先と見た原始氏族の信仰で姓氏の起源です。東夷・ツングース系の天孫族は日神信仰(天照大神、ただし男神)と鳥トーテムを持っていました。金鵄(きんし)伝承や八咫烏(やたがらす)、白鳥伝説などはその表れです。一方、稲作を伝えた海神族は竜蛇トーテムを持っていました。奴国王が後漢の光武帝から賜った金印の鈕(つまみ)が蛇だったのはそのせいですし、海神族出身の豊玉姫が出産時に鰐(わに)と化すのもそのせいです。山祇族の場合は天孫族や海神族ほど明瞭ではありませんが、犬狼トーテムを持ち、月神・火神・水(雷)神を祀(まつ)ったことが特徴です」
宝賀さんに数時問にわたって語ってもらい、邪馬台国から初期ヤマト王権への移行の過程がずいぶん明らかになってきたように感じた。
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■北九州からヤマトへ
・基本姿勢 361-01
記紀の記述を尊重しつつ、できる限り正確に古代史の流れを理解したい

・記紀を読み誰しも抱く疑問
なぜ、国譲りの地が出雲で、天孫降臨の地が日向で、新しい国(統一国家)が大和なのか?

なぜ、卑弥呼は記紀に登場しないのか?

なぜ、最初の天皇(ハツクニシラススメラミコト)は2人(初代神武、第10第崇神)いるのか?

■山祇(やまづみ)族、海神(かいじん)族、天孫(てんそん)族
山祇(やまづみ)族は縄文系の土着の種族で、後の中臣氏、大伴氏など。
海神(かいじん)族は中国・江南からきたタイ・越人系の種族で阿曇、三輪氏など。
天孫(てんそん)族は中国の山西省付近から朝鮮半高南部を経由してきた東夷系の半猟半農の種族で天皇家や物部氏など。

 

 

弥生時代から古墳時代にかけての主な出来事と搬出物
(下図はクリックすると大きくなります)

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■天孫降臨
日向(ニニギ降臨地、神武居住地、東征の出発地)筑前の怡土(いと)・早良(さわら)地方。
日向(ひゅうが)は「紀」景行17年条「この国、直く日の出づる方に向けり」以降の呼び名で、 「記」に「此の国は韓(から)国に向ひ」とある。旧前原市に計12社の天孫(あまおり)神社がある。 361-03


宝賀説:天孫降臨は2世紀前半頃、筑後川流域にいた天孫族(高天原)が筑前に進出、敵対していた葦原中国(大己貴命の海神族)を滅ぼした頃のこと。

■神武東征
下図が神武東征の従来のルートであるが、宇佐から岡水門に行くことは不自然である。
神武東征の実際は、日向(筑前)- 岡水門 - 宇佐 - 安芸 - 吉備 - 速吸の門(播磨明石)- 灘波碕 - 河内 の順である。 361-04



・なぜ、神武は弱かったのか?
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・「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」と命名したのはニギハヤヒ(神武即位前紀)

・ニギハヤヒは天孫族の同族として、天羽羽矢(あまのははや)・歩靫(かちゆき)を提示した(ウマシマジは神武に十種の神宝を献上)

・なぜ、先行の天孫降臨を認めたのか(神武は伊都支分家の庶子)

(『旧事本紀』によれば、ナガスネヒコを討ったのは、すでに死去していたニギハヤヒの子、ウマシマジ)

神武の東征開始から大和平定、橿原造都の詔令まで約4年5ヵ月。
これは2倍年歴なら実質約2年2ヵ月、4倍年歴なら実質約1年1ヵ月。(ただし「記」によれば、橿原宮即位までなら約6年3ヵ月)
神武即位後、その76年春3月に崩御(127歳)。この治世期間76年は、4倍年歴なら19年。一つの仮説として、即位までが2倍年歴とすれば「51歳→25歳」、治世期間のみ4倍年歴とすると「76年→19年」。つまり44歳余で崩御となる。

・神武東征の痕跡
弥生後期(2世紀後半~3世紀初)防御的な高地性集落が、大坂・奈良・兵庫・和歌山に集中出現

ほぼ同時期、畿内で環濠集落が消滅。

ほぼ同時期、西日本の銅鐸が埋納される。

大和盆地の南部地域と、筑後川中流域の地名の相似分布が著しい。



(下図はクリックすると大きくなります)361-06


これは、北九州から大和への数次の移住の結果である。 361-07
①2世紀前半、海神族の三輪一族(アジスキタカヒコネ、オオモノヌシ)など。

②2世紀半ば頃、天孫族のニギハヤヒの遷住。

③2世紀後半、天孫族の神武の遷住

宮都は「畝傍(うねび)山の東南の橿原の地」(紀)。

橿原市久米町の橿原遺跡から白カシの樹根出土。

洞村(橿原市大久保町)は「神武陵の守戸」と伝承

■「紀」の系譜
①神武-②綏靖-③安寧-④懿徳-⑤孝昭-⑥考安-⑦考霊-⑧孝元-⑨開化-⑩崇神

 

 

 

推定治世
神武(175年~194年)
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崇神(315年~331年)
景行(342年~356年)

詳細は宝賀寿男『「神武東征」の原像』青垣出版参照。

■纒向
原ヤマトの三輪氏が奉斎した三輪山と崇神天皇のヤマト王権が祀った巻向山とは異なる。三輪山とダンノダイラの周辺図(栄長増文著「大和出雲大発見」より)

 

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箸墓-桧原神社-纒向山は「太陽の道」(春分、秋分の日の出、日没ライン)
纒向遺跡大型建物の中軸線に重なり、巻向山が王権祭祀の対象。

 

・箸墓古墳から木製鐙(あぶみ)

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・纒向編年表
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神武以後、最初の百年は地域的部族国家だった。崇神(315年~331年)朝に四道将軍(北陸、東海、西海、丹波)を派遣。ヤマト王権を確立。

 

 

 

 

■出雲勢力
筑前から来たアジスキ神(味鉏高彦根)が、出雲の祖神。
(スサノヲや八束水臣津野神も同神)

西の海神族がまず全出雲を押さえた。

大穴持命は国造りの過程で、東部[意宇(おう)地方]の天孫族(スクナヒコ神兄弟)の協力を得た。

協力関係は約200年続いた。

4世紀前葉の崇神朝、東部の天孫族は進出してきたヤマト王権に与し、西部を屈服させた。これにより東部は出雲臣氏となり、出雲国造家として出雲大社(杵築社)の神主家となった。
(西部も神門臣氏として続いた)

(下図はクリックすると大きくなります)361-12



三輪氏族は、筑前-出雲西部を経て、2世紀前葉~半ば頃 大物主命の時に大和へ。
原ヤマト国の首長となる。

大己貴(筑紫)-大穴持(出雲)<父>-大物主(大和)<子>

神武の正妃ヒメタタライスズヒメ以後、第4代天皇まで、事代主神(磯城の三輪氏)の女(むすめ)。

ニギハヤヒは出雲で生まれ、播磨を経て河内へ入った。2世紀半ば頃か。

(下図はクリックすると大きくなります)361-13

 

 

2.年代論について  安本美典

■「マルチコ」の問題
宝賀寿男氏は邪馬台国論争の邪馬台国はどこか?では、私と同じ九州説であり、こちらの考えの朝倉市に近い久留米市あたりを考えているようである。しかしその他では異なるところが多く、神武東征について、私は卑弥呼の後としているのに対し、宝賀氏は卑弥呼の前とし、2世ごろを考えている。ちょうど百年くらい異なる。

宝賀寿男著『「神武東征」の原像』(青垣出版2017年刊)によると、推計式の基礎データは下記の表である。

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そして、天皇即位の推計式は、最小自乗法による回帰方程式で求めたとしている。
この式は下記である。
Y=a+bX1+cX2
=a+bX1+bΣNi
=174.7+13.0Gi+7.8ΣNi
(当てはめは、最小自乗法による)

注:最小二乗法(さいしょうにじょうほう)は最小自乗法とも書く。測定で得られた数値の組を、適当なモデルから想定される1次関数、対数曲線など特定の関数を用いて近似するときに、想定する関数が測定値に対してよい近似となるように、残差の二乗和を最小とするような係数を決定する方法、あるいはそのような方法によって近似を行うことである。(Wikipediaより)

この算出は、X1とX2の変数を二つ持って来ている。これが問題である!

『現代統計学大辞典』(東洋経済新報社刊)に多重共線性の問題が書かれている。
多重共線性の問題(multi-collinearity problem)は、多変量回帰分析を行なっていく場合に注意されなければならない重要な課題の一つである。いま、簡単な回帰方程式

y=a+b1x1+b2x2  -----(1)

を分析する場合に、独立変数x1,x2の間に、

α0+α1x1+α2x2=0 ----(2)

の関係が背後に存在するとすれば、式(1)の推定に用いられる正規方程式は不定となり、一義的な根はもたなくなる。うなわち、式(2)の関係から、 x1と、x2との相関係数は±1となり、x1と、x2とが完全相関のときにも正規方程式が不定となる。通常の経済分析に使用される独立変数 x1,x2には測定誤差を含むことが多いから、正規方程式が完全に解けなくなることは少ない。しかしそれよりもたらされる回帰係数はきわめて不安定なものとなり、その係数の意味はあいまいなものとなる。したがって、独立変数間に高い相関係数のある場合(このときには式(2)の関係が近似的に成立している公算がきわめて大きいことを示している)、われわれは x1,x2の効果を分離して測定することができない。多重共線性問題とは、この種の問題の呼称である。→マルチコ

 

インターネットにも下記のことが書いてある。
・多重共線性とは?
重回帰分析を行っている際、説明変数を増やすほど決定係数が高くなりやすいため、ついついよりたくさんの説明変数を入れてしまいがちです。しかし、その際に気をつけなければならないことがあります。それが多重共線性です。
多重共線性とは、説明変数間で相関係数が高いときに、それが原因で発生する現象です。
(英語でmulticollinearityと言われるため、略して「マルチコ」とも呼ばれます)

注:宝賀氏の場合、私が計算すると相関係数が0.99にもなる。
EXCELの注書きにも相関係数が0.95以上では問題があるとして、何らかのくふうをする必要があるとしている。

・どうしてダメなのか?
多重共線性によって引き起こされる症状は、
1.分析結果における係数の標準誤差が大きくなる
2.t値が小さくなる
3.決定係数が大きな値となる
4.回帰係数の符号が本来なるべきものとは逆の符号となる
などがあります。いずれも、正しく推計できなくなるような悪影響をもたらします。

・多重共線性の対応方法
それでは、このような多重共線性に直面してしまった場合、どのように対応するのが良いのでしようか。最も一般的な解消法は、「相関関係が高いと考えられる説明変数を外すこと」です。
たとえば、【コンビニの月間の売上】を目的変数とした分析を行うケースを考えてみます。売上に関係しそうな要素の中に「雨が降った日数」と「月間の降水量」を入れました。この状態で分析をすると、おそらく多重共線性が発生します。なぜならば、「雨が降った日数」が多ければ多いほど「月間の降水量」も増えるので、この2つの要素は相関係数が高いからです。
このような場合は、どちらか一方を外して再度分析することで、多重共線性を解消することができます。

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しかし、因子分析法から、
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Z=aX1+bX2のような、1種の合成変数を考え、そのZとYとの関係を考えたほうがよい。
Zは乱暴にいえば、X1とX2とを、(一定の変換[尺後調整]ののち)、足して2でわったようなもの。X1とX2との共通因子を考えたばあいの因子得点。

■「世数X1」は「天皇の代数」以上に信頼できるのか?
・「代数」と「世数」
そもそも、那珂通世の年代論は、基本的に「世数」情報によるものである。
「代数」と「世数」とはどう違うか。下記のコラムにその違いを示した。

コラム 世数と代数
古代の天皇の活躍年代(あるいは、即位年代、在位年代など)を推定しようとするばあい、天皇の「代数」を基本的な変数(独立変数)と考える立場と、天皇の「世数」を基本的な変数と考える立場とがある。
たとえば、右図の系図のようなばあい、第二十四代仁賢天皇は、第十六代仁徳天皇から数えて「八代目」の天皇である。しかし、世数からいえば、「三世目」の天皇である。「世数」では、親子関係によって、何世目かを数えるわけである。

現代でも、たとえば、宝賀寿男氏は、『神武東征の原像』(青垣出版、2006年刊)などで、世数情報にもとづく年代論を展開しておられる。
しかし、私は「世数」情報によって、古代の天皇の活躍年代を推定することには、賛同できないでいる。

それは、以下にのべるような理由にもとづく。
(1)代数情報よりも、世数情報のほうが信用できるとは思えない。たとえば、古代の百済の王系のばあいでも、王の代数情報については、『日本書紀』と、朝鮮の史書『三国史記』とで、伝えるところが一致している。しかし、王の系譜の父子関係、兄弟関係などは、『三国史記』と『日本書紀』とで、かなり異なっている(系図参照)。時代の古いところで、その異なりは大きい。

しかも、『日本書紀』と『三国史記』とは、それぞれ文献としての長所をもっている。すなわち、つぎのとおりである。
(a)『日本書紀』の成立は、720年である。『三国史記』の成立は、1145年である。『日本書紀』のほうが、『三国史記』よりも、400年以上はやく成立している。すなわち、古い情報をとどめている可能性が大きい。

(b)『三国史記』は、地元の朝鮮で成立した文献である。外国の史書『日本書紀』の記事よりも、伝聞的要素が少ないはずである。
系図にみられるように、『日本書紀』によるとき、第二十代眦?有王(ひゆうおう)の四世目(父子関係で、四世代目)の孫が、第二十七代か威徳王(いとくおう)である。いっぽう、『三国史記』によるとき、第二十代眦?有王(ひゆうおう)の孫が、第二十七代威徳王である。王の代数は『日本書紀』も『三国史記』も、威徳王は瓏有王から数えて、同じく七代目で一致している。しかし、世数は四世目と六世目とで異なっている。
このように、世数情報(父子関係情報)は、あやふやであるが、王の代数情報は、よりよく伝えられているようにみえる。


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那珂通世の「世数」情報を使った年代論よるグラフは下記で、あきらかに、神武天皇~雄略天皇まで時代が1代の年代が23.9年と大きくなっている。

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『日本書紀』によれば古代の天皇の在位年数の大きさはもっと大きく、神武天皇~欽明天皇までの時代が1代39.24年と、非常に長い。

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宝賀寿男氏の説によっても、神武天皇~雄略天皇までの時代が1代13.9年と、少し長い。

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安本説によれば、神武天皇~雄略天皇までの時代が1代9.9年と、ほぼ収まる。361-21

中国の王の平均在位年数を見ても、1~4世紀は10.05年と、安本説に近い。

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横軸に天皇の代をとり縦軸に西暦年数を使って、天皇の代をグラフにすれば下記となり、天皇の代を遡っていけば、天照大神は卑弥呼の年にあてはまる。

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このように、安本説にすれば、古代から現代まで天皇一代の在位年数が自然なグラフとなるが、他の説では古代のところが不自然に大きくなる。

■天照大神は男性なのか?
[宝賀寿男氏の見解]
<コラム>天照大神は女神だったか
記紀の記述もあって、天照大神は当然のことのように女神と思い込まれてきた。最近では神武天皇実在説をとる皇學館大学名誉教授田中卓博士ですら、女神を原点とする女系天皇容認論(『諸君!』平成18年3月号)を展開される。
しかし、多角度から検討してみると、むしろ天照大神の原型は男神であったと考えられる。江戸期には天照大神男神説もかなり見られており、津田左右吉博士や最近でも松前健氏、楠戸義昭氏などに男神説が見られる。これらの所説には様々な差異があり、私としても、個別には多少とも異論かあるが、結論的には同説である。ここでは、私見の根拠を簡潔に列挙しておく。

(a)『日本書紀』の冒頭は陰陽二元論で始まり、イザナギ・イザナミニ神[諾冊(だくさつ)二尊]による国生みや神々の生成もこれに従っており、国中(くになか)の柱(天之御柱)を回る場面では、イザナギを「陽神」、イザナミを「陰神」と呼んでいる。男は陽で、女は陰であり、陽は太陽で、陰は月であるから、天照大神は太陽神であり、本来男でなければならず、月読尊は陰神であり、本来女でなければならないはずである。この対比は、ギリシャ神話でも同じであって、太陽神のアポロと月抻のアルテミスの兄妹神の組合せで現れる。(以下略)

           
[安本美典氏の考え]
坂本太郎他校注『日本書紀上』(日本古典文学、岩波書店、1967年刊)554ページ、補注1~36より
「皇祖神は最初男性であったのを女帝推古天皇の代に女性に改めたのであるとする推測説が荻生徂徠・山片蟠桃・の著書に見え、津田左右吉もその結論を支持しているが、この神の原始的な名称であったと思われる、オホヒルメノムチが女性を意味する(→86頁注6)とすれば、やはり最初から女性と考えられていたのであろう。上記の古代日本の実情、ならびに当時における女性の社会的地位の高さなどを考えても、皇祖神が女性であるのは不自然ではない。

小島憲之他校注・訳『日本書紀①』(日本古典文学全集、小学館、1994年刊)35ページ頭注17より

17「大日孁貴」は訓注によってオホヒルメノムチと訓む。オホは美称。ヒルメは日ル(連体助詞)女(め)で、太陽である女性。ムチは高貴な人。訓注の「孁、音は力丁反」は、上の字「力」の頭子音と下の字「丁」の韻尾を結んで音を示す。リャウ・レイ。これは『万象名義』に「孁、力丁反・・・妤・?字」とあるように古本『玉篇』による。神代紀の撰者は「孁」をメ(女)の訓に当て、しかも女神とした。

山片蟠桃『夢の代(しろ)』(宮内徳雄氏現代語訳。安本編著『江戸の邪馬台国』[柏書房1991年刊]所収)
「天照大神を女体とする説は聖徳太子の姦謀から起きている。そのことのおもなところは徂徠文集の『家大連(おおむらじ)の檄に擬する』の文に詳しい。」
「(推古)女帝を立てることは、日本開闢以来なかったことである。」「さすが例のない女帝のことであったから、非難がまちまちに起った。馬子・太子はこれを恐れて鎮静の方法を計った。ここにおいて国史の編述が始まり、日の神を女体と称して諸臣万民をあざむいた。これで上下が従い服した。これは全く太子の姦計である。
[当時の世をあざむこうとして、皇祖をいつわり万世をあざむく。これは太子の大罪である。]」
安本注:これは文献的なあらたな根拠が提出されているわけではない。「解釈」であり、「日本古典文学大系」本『日本書紀』の述べるように「推測説」である。

(1)『日本書紀』は「大孁貴(おおひるめのむち)」「天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)」「大日孁尊(おおひるめのみこと)」などと記す。「孁」の字は「女」の字をふくみ、かつ「メ」と読まれている。

(2)日神(ひのかみ)(天照大神)は、「吾、婦女(たをやめ)なりと難(いふと)も」とみずから、女性であるとのべている(岩波、日本古典文学大系本119ページ)。

(3)素戔嗚尊(すさのうのみこと)は、『日本書紀』のなかで、天照大神のことを十三回にわたり、「姉(なねのみこと)」「阿女(なねのみこと)と、「姉」と呼んでいる。「姉」はもちろん女性である。

(4)『日本書紀』では、日本古典文学大系本104ページで、「髮(みぐし)を結(あ)げて髻(みずら)に為(な)し、裳(みも)を縛(ひ)きまつりて袴(はかま)に爲して、」と男装したことをのべている。「裳(みも)」は女性のはく、一種のスカートをさしているとみられる。「髻(みずら)に為(な)し」もそれまでは女性なので、「髻(みずら)」にしていなかったことを示している。
『古事記』も「御髪(みかみ)を解かし、御みずらに纒(ま)かして、」と記す。これを、たとえば、西宮一民氏校注の『古事記』(新潮社、1979年刊)は、「男子の髪型。男装したこと。」と注をつける。女性であるから、男装したことになるのである。

(5)『古事記』はつぎのように記す。
「天照大御神、忌服屋(いみはたや)に坐(いま)して神御衣織(かむみそお)らしめたまひし時に、その服屋(はたや)の頂(むね)を穿(うか)ち、天の斑馬(ふちうま)を逆剥(さかは)ぎに剥(は)ぎて、堕(おと)し入(い)るる時に、天(あめ)の服織女(はとりめ)見驚きて、梭(ひ)に陰上(ほと)を衝(つ)きて死にき。」

『日本書紀』もつぎのように記す。
「日神(ひのかみ)の織殿(はたどの)に居(ま)します時に、則ち斑駒(ぶちこま)を生剥(いけはぎ)にした、其の殿(みあらか)の内の納(なげい)る。」
「天照大紳の、方(みざかり)に神衣(かむみそ)を織(お)りつつ、斎服殿(いみはたどの)に居(ま)しますを見て、則ち天斑駒を剥(さかはぎには)ぎて、殿(おほとの)の甍(いらか)を穿(うが)ちて投(な)げ納(い)る。是(こ)の時に、天照大紳、驚動(おどろ)きたまひて、梭(かび)を以(も)て身(み)を傷(いた)ましむ。」

『古語拾遺』も「(日の神が、)織室(はたどの)にます時に当りて、生(い)ける駒(こま)を逆剥(さかはぎ)にして、室(との)の内(うち)に投(なげい)る。」とある。

服(はた)を織(お)るのは、「女性」の仕事である。

以上のように、「天照大御神=女性説」は、わが国の最古の史書に記されているという「文献的根拠」をもつ。

聖徳太子のころすでに、各氏族は、あるていどの氏族伝承をもっていたと考えられ、蘇我馬子・聖徳太子の考え、天皇家の祖先神の性別を変更することが可能であったであろうか。『古事記』や『日本書紀』の編纂のころ、蘇我氏や、聖徳太子の子孫はそれほど大きな力をもっていなかったようにみえる。
「天照大御神=女性説」は、江戸時代の「推測」であって、新しい文献的資料などが提出されているわけではない。

 

このように私は宝賀氏の考え方と異なる。しかし最近出版した『邪馬台国全面戦争』で、畿内説と全面戦争中であるとき。同じ邪馬台国九州説の中で議論することは好ましくないのだが・・・。

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