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第341回 邪馬台国の会
景行天皇とヤマトタケル
景行天皇と日本武の尊との実在性について


 

1.景行天皇とヤマトタケル

『景行天皇と日本武尊―列島を制覇した大王』(原書房・2015)の本は、河村哲夫と 志村裕子の著者である。
今日は河村が書いた部分の景行天皇とヤマトタケルの九州について述べたい。
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1.1 歴史家の本から
景行天皇の九州遠征として、上田正昭氏の『私の日本古代史(上) 天皇とは何ものか――縄文から倭の五王まで』(新潮社・2012)に掲載された地図がある。

・この本は『日本書紀』・『風土記』の記述と違っている。
この本では景行天皇の九州遠征が八女で終わっている。しかし『日本書紀』では岩瀬川・夷守(宮崎県小林市)まで行っている。
『風土記』では五島列島・平戸・唐津などへも遠征している。更に「高羅の行宮」を拠点に肥前(佐賀県)地方を細かく巡幸し、日田を経由している。

・現地調査が行われていない
子湯(宮崎県)から熊(熊本県人吉市)へまっすぐ西に進むことは不可能である。険しい九州山地が屹立しており、椎葉村、五家荘を横断して人吉に進めるはずがない。このコースは不可能。『日本書紀』のコースとも違っている。

各地域の伝承がまったく調査されていない。

このように、歴史家が書いた本でも、問題がある。

1.2 現在の学界においては、「非実在説」が多数
(1)岩波『日本史辞典』では下記のように書かれている。
景行天皇:記紀系譜上の第12代の天皇。
名は大足彦(オオタラシヒコ)尊。父は垂仁天皇。成務天皇・日本武尊の父。宮は纒向日代(まきむくのひしろ)宮から志賀高穴穂宮に移る。日本武尊を派遣して倭国の支配領域を九州・東国に拡大した天皇として知られているが、実在が疑われている。
このように景行天皇の存在が疑われている。

(2)非実在説の性格
①敗戦後の主流
戦後の潮流のなかで、日本の歴史――とりわけ古代史の破壊行為が行われた。その代表が「欠史8代」――すなわち、初期天皇抹殺論である。
②特定のイデオロギーにより机上でつくられた
唯物史観史学はもとより、民主主義論者を含め、時代の潮流のなかで、初期天皇非実在説が唱えられた。
③学界の重鎮が旗を振る
上田正昭氏や直木孝次郎氏など、京都学派が戦後の古代史界をリードし、現在では重鎮として君臨している。

(3)景行天皇「非実在説」の根拠
①景行天皇の九州巡幸記事は『日本書紀』には記載されているが、『古事記』にはまったく記載されていない。
②『日本書紀』の記事は、天皇制度を正当化するための虚構の物語であり、歴史を反映したものではない。「タラシヒコ」という称号は12代景行天皇・13代成務天皇・14代仲哀天皇の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明天皇・35代皇極天皇(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであり、12,13,14代の称号は後世の造作であり、景行天皇の実在性には疑問がある。

(4)記紀の記事は多くが日本武尊の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いがある。
・このため、九州・西日本地域に残されたおびただしい景行天皇伝承および中部・関東・東北方面に残されたヤマトタケル伝承が学問的研究の対象から除外、もしくは無視された状態となっている。

1.3 『景行天皇と日本武尊―列島を制覇した大王』に掲載された巡幸地図は下記となる。
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1.4 景行天皇とヤマトタケル伝承の探究の効果
(1)伝承も貴重な情報源である
日本各地に残された膨大な伝承は、『日本書紀』『古事記』「風土記」などを、見事に補完している。

(2)初期天皇は実在した
全国各地の伝承は、『日本書紀』『古事記』「風土記」に登場する初期天皇や豪族の実在を前提にしており、実在しないとする伝承は一件も見当たらない。
大和朝廷から命令を受けてこしらえたとする伝承もまったく存在しない。
各地域が相互に連絡を取り合って虚構の伝承をこしらえたとする伝承もまったく見当たらない。

(3)4世紀後半の古代史
「景行天皇とヤマトタケル」の実像に迫ることによって、4世紀後半の古代史に迫ることが可能となる。


1.5 『日本書紀』による景行天皇の時代
(1)生没年:垂仁天皇17年(紀元前13年)~紀元後130年(享年143)
この143歳はありえないし、年代が古すぎる。
(2)在位期間:紀元後71年~130年(60年間在位)
これも長すぎる。


1.6 安本美典先生の「統計的年代論」
・『日本書紀』は年代を誤っているのではないか。
・神武天皇が紀元前660年に即位されたとする記事がその代表例。
その当時は、いまだ縄文時代で、中央集権的な国家をつくれる段階には到達していない。
・天皇の在位年代は、適正に合理的に補正して用いる必要がある。
・統計的に処理した年代論によれば、下記となる。 341-03


これからみると、景行天皇の活躍年代は、おおよそ370~385年となる。
4世紀後半の人物である。

1.7 景行天皇の九州遠征
(1)景行天皇12年
・熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)から豊前(行橋市)に渡り、行宮(かりみや)を設ける。神夏磯媛(かむなつそひめ)から賊の情報を得て誅殺。碩田(おおきた、大分市)からで土蜘蛛を誅して、日向国に入る。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、熊襲を平定した。日向高屋宮に留まること6年。

(2)『日本書紀』の記事
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ここで、終わりのほうに豊前国の京都(みやこ)郡のことがでてくる。

(3)邪馬台国時代の「トヨ」
①豊の国の中心地は京都郡であった
安本美典氏は、「京都という地名は、景行天皇の時代よりも、もっと早くからあったとみてよいであろう。とすれば、この地が極めて古い時代に、ほんとうの都であった可能性もでてくる」とし、「卑弥呼=天照大神」で、「台与=万幡豊秋津師比売(よろずはた・とよあきづしひめ)」とする。
卑弥呼=天照大神の死後、邪馬台国の中心地は、北部九州・筑後川流域から東方の豊国に移り、京都郡が都とされ、その次の代にさらに南下して日向に都を移したとする。

②江戸時代の多田義俊の説――京都郡は天照大神の都であった
「『豊前国風土記に言う。『宮処(みやこ)の郡、古(いにしへ)、天孫(あまみま)、此(ここ)より発ちて、日向の旧都に天降りましき。けだし、天照大神の神京(みやこ)なり』」(『中臣祓気吹鈔』1733)――ただし、偽作とする説強し

③『魏志倭人伝』の「投馬国」を「豊国」とみる説あり
(一)説「投馬」は「東」の意味である
安本美典氏は「『太平御覧』には「於投馬(アツマ)国」と記されている。遠賀川流域から豊前国一帯の地をさす」とする。
(二)説「投馬」は「投与」=「豊」のことである
天雲伝氏は「『馬』の崩し字が『与』に似ていたので『投馬国』に誤られた」とする。

1.8 京都郡の伝承
(1)神夏磯姫
豊前では貫川流域を拠点とする女性首長の神夏磯姫(かむなつそひめ)を服属させた。
注:夏磯=貫[貫川(ぬきがわ)]ではないか

(2)長峡(ながお)宮
長峡川流域の長峡宮(行橋市長尾)を拠点にした。
注:長峡宮が京都郡のおこり
注:御所ヶ谷とする説もあり。

(3)御所ヶ谷神籠石(国指定遺跡) 福岡県行橋市大字津積・京都郡みやこ町勝山大久保・犀川木山
①年代推定及び築造目的
発掘調査で出土した土器などから7世紀の後半に築かれたと推定されている。663年、白村江の戦いの後に整備された大野城、基肄城、金田城など山城を築き国防体制の強化を行った。この一環として、御所ヶ谷神籠石も築かれたとみなされている。
②構造
標高246.9mのホトギ山から西に伸びる尾根の主に北斜面に広がる。城の外周は3㎞で、2㎞以上にわたって版築工法で土をつき固めて築いた高さ3~5mの土塁をめぐらせている。谷を渡る石塁には排水口が造られている。7つある城門のうち中門には、花崗岩の切石を巧みに積み上げて排水口を設けた巨大な石塁が残っている。また、城内には建物の礎石や貯水池らしき遺構、未完成の土塁などもある。

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(4)高羽の川(彦山川)上流の「麻剥(あさはぎ)」
①高羽
田川(田川市郡)のことである。田河とも書かれ、『和名抄』では多加波と書かれる。
②高羽の川
彦山川のこと。田川郡添田町から直方市に流れる一級河川で、直方で遠賀川と合流する。
③麻剥
麻剥という名からして、麻の皮を剥いだ衣を身にまとう風習をもった部族であったかもしれない。『魏志倭人伝』にも、「紵麻(ちょま)を植え、細紵(さいちょ)つくる」とあり、邪馬台国時代の倭人が麻の繊維を利用して糸をつむぎ、布を織っていたことが記されている。

(5)緑野の川(深倉川・緑川)上流の「土折猪折(つちおりいおり)」
①緑野の川上
・彦山川上流には支流の深倉川があり、田川郡添田町落合には深倉峡とよばれる渓谷がある。そのあたりを流れる深倉川は緑川ともよばれるが、それは土蜘蛛の麻剥が景行天皇に討伐された際、この川が血みどろになり、このため「血みどろ川」とよばれ、それがなまって「緑川」になったという伝承が残されている。
②土折猪折
一般的には「土折」とは「土に居り」という意味で、土の上に直接座っているさまをあらわし、「猪折」とは、やはり座っているさまをあらわすとされている。土に座る者への蔑称であろう。山奥の洞窟にでも住んでいたのであろうか。

(6)御木の川(山国川)上流の「耳垂」
①御木
・「御木」とは、上毛郡と下毛郡のことをさす。そこを流れる最も大きな川は山国川で、古くは「御木(みけ)川」とよばれ、「毛国(けのくに)」あるいは「木国(きのくに)」とよばれていた。
②耳垂(みみたり)
・『魏志倭人伝』には「投馬国」の官職として「弥弥(耳)」と「弥弥那利(耳成あるいは耳垂)」が記されており、『古事記』上巻にも「天の忍穂耳(おしほみみ)」「須賀の八耳(やつみみ)」「布帝耳(ふてみみ)」と記されている。
・これからみると、「耳」は邪馬台国時代の官職名に由来するもので、それが人名のなかに継承されものと考えられる。

(7)宇佐の川(駅館川)上流の「鼻垂(はなたり)」
①宗像三女神の故地
・『日本書紀』巻一に、宗像三女神の記事に関する伝承として、「日神(天照大神)が生まれた三柱の女神を葦原中国(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋に降らせられたが、いまは海北道中(うみのきたのみちのなか)(朝鮮への航路)の中においでになる。名づけて道主貴(ちぬしのむち)という」とある。
・宗像三女神とは、田心姫、湍津姫、市杵島姫のことである。『古事記』によると、天照大神と素戔鳴命(すさのおのみこと)との誓約によって生まれた神。
『日本書紀』には、「これすなわち胸形の君らがいつき祭る神なり」、つまり、「宗像の君らの氏神である」と書かれている。
②宇佐氏
兄の五瀬命らと船で日向を出発した磐余彦(神武天皇)は、筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、宇佐津姫を侍臣の天種子命と娶せた。
天種子命は天児屋命(あめのこやねのみこと)の孫で、中臣氏の遠祖。
③鼻垂
妻垣八幡宮などの社伝をはじめ、鼻垂が安心院を拠点にしていたという伝承が残されている。
④宇佐一族との関連
・景行天皇の西征に際して宇佐国の末裔である宇佐一族は非協力的な態度を取り、そのために鼻垂という蔑称で記録にとどめられてしまったのかもしれない。


1.9 筑前における景行天皇伝承
(1)『筑前国続風土記附録』・・御陵の宝満宮(福岡県大野城市中1丁目)
宝満山は神功皇后の時代は三笠山、その前は釜山と言われた。
宝満山には玉依姫を祭っている宝満宮がある。

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(4)甘木朝倉地域における神功皇后と景行天皇伝承
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・蜷城(ひなしろ)(朝倉市林田)341-08 ――日代(ひのしろ)
大庭村の蜷城は十二代景行天皇が日代宮(奈良県桜井市の纏向)から周防・豊前などの国を経て、筑前国に入られたときに滞在されたところから地名となったという。神功皇后もこの地で官軍の陣列を閲兵し、羽白熊鷲を討伐後、太刀を捧げて祈ったという。

(5)景行天皇の浮羽の行宮
『日本書紀』景行天皇18年7月に高田の行宮(かりみや)から八女県(やめのあがた)、更に的邑(いくはのむら)[浮羽と名づけた]へ行った記事がある。
浮羽の行宮は神功皇后、景行天皇が行幸されたところ。
矢部(川)、八女と発音が近い。昔は同じではないか。

浮羽の行宮の伝承地は現在の若宮八幡神社で、住所は「うきは市吉井町若宮366-1」である。

 


1.10 装飾古墳について
(1)圧倒的な九州の分布
日本全国に600基ほどあり、その半数以上に当たる約340基が九州地方(うち熊本県は186基)に、全国の38%にも及ぶ数を有している。約100基が関東地方に、約50基が山陰地方に、約40基が近畿地方に、約40基が東北地方にあり、その他は7県に点在している。

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古墳や横穴の内璧などに装飾として同心円文、蕨手文(わらびてもん)、人物、船、家などが描かれているが、そのうち船が描かれている装飾古墳は全国に89基あって、その分布状況については次のとおりである。
宮城1、茨城5、千葉5、埼玉1、神奈川4、大阪3、鳥取11、島根1、福岡16、佐賀3、熊本31、大分3、長崎5






 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2)浮羽郡の装飾古墳

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(3)日の岡古墳(福岡県うきは市吉井町若宮)
6世紀半ばの前方後円墳で船があり櫓(ろ)がある。

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(4)珍敷塚(めずらしづか)古墳(うきは市吉井町大字富永字西屋形)
6世紀後半の円墳。
靫(ゆき)[矢を入れる道具]が描かれており、矢が上を向いている。靫(ゆき)が3個あり、この船は準構造船である。341-14

上図の赤四角で囲った部分を拡大した図が下記の左図で鳥が描かれている。
この絵はエジプトのセン・ネジェム墳墓(紀元前14世紀)の下図右絵と同じ構図である。
死者を祀る行為は共通性があることが分かる。

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(5)原古墳(うきは市吉井町大字富永字原)
6世紀後半の円墳。
この絵でも船があり、櫓があり、弓を持った人がいて、馬が船に乗っている

 

 

 

 


(6)筑紫野市の五郎山古墳(筑紫野市原田)
6世紀半ばの円墳であり、 筑紫神社の近くにある。
馬に乗って矢を射ろうとしている。その下では 白い着物を着た人がいる。
白い着物を着た人の前に建物がある。この建物が筑紫神社で、白い着物を着た人は神官ではないかという説もある。341-17


1.11 浮羽の「的(いくは)氏」について
(1)鳥船塚古墳(うきは市吉井町大字富永)
・6世紀後半の円墳。
上に大きな盾が描かれ、下に的(まと)が描かれている。船がが描かれ、鳥が二羽描かれている。

以下にある話から、浮羽の豪族に祖先に対し盾と的を描いたのではないかとの説がある。341-18

(2)『日本書紀』の記事
『日本書紀』の仁徳天皇12年の記事に「百寮(つかさつかさ)を集(つど)へて、高麗(こま)の献(たてまつ)る所(ところ)の鉄(くろがね)の盾(たて)・的(まと)を射(い)しむ。諸(もろもろ)の人、的を射通(いとは)すこと得ず。唯(ただ)的臣(いくはのおみ)の祖(おや)盾人宿禰(たてひとのすくね)のみ、鉄の的を射て通しつる。・・・・名を賜ひて的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)と曰(い)ふ。」とある。

(3)的氏は武内宿禰(たけうちのすくね)の子の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の末裔とされる。
①葛城襲津彦
・『日本書紀』神功皇后摂政五年の春三月七日
新羅王の質、微叱旱岐(みしこち)の見張りとして襲津彦を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられ、怒った襲津彦が蹈鞴津(たたらつ)から草羅城(くさわらのさし)を攻撃して捕虜を連れ帰った。
・応神天皇十四年
百済の弓月君(ゆつきのきみ)が応神天皇に対し、百済の民人とともに帰化したいが新羅が邪魔をして加羅から海を渡ることができないことを告げる。天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令するが、三年なんの音沙汰もなかった。
・応神天皇十六年八月
天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)に「襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない、加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。新羅の王はその軍勢を恐れて逃げ去った。そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。
・仁徳天皇天皇四十一年三月
紀角宿禰(きのつのすくね)に無礼をはたらいた百済の王族の酒君(さけのきみ)を、百済王が襲津彦を使って天皇のところへ連行させた。
・神功皇后摂政六十二年
『日本書紀』に引用された『百済記』によると、沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を使って新羅を撃たせようとしたが、沙至比跪は新羅の美女に心を奪われ矛先を加羅に向け、加羅を滅ぼしてしまう。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、天皇は木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪を攻めさせる。沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると自殺した。
②的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)
仁徳天皇12年高句麗から贈られた鉄の盾と的を、ただひとり弓で射とおしたので仁徳天皇からこの名をあたえられた。仁徳17年新羅に朝貢をうながす使節として派遣された。
盾人宿禰 ⇒的戸田宿禰

結論:①景行天皇の時代(370~385)に浮羽郡の的氏は朝廷との結びつきを強めた。
    ②神功皇后の時代(390~410)に朝鮮出兵に従軍した。
    ③応神天皇の時代(410~420)に葛城襲津彦と的氏との間に婚姻など特別の関係が生じた。
    ④仁徳天皇の時代(420~430)に的氏は近畿大和で朝廷に仕え、九州の的氏は朝鮮に対する軍事作戦に従事した。


1.12 佐賀県における景行天皇とヤマトタケルの伝承
(1)『肥前国風土記』による景行天皇伝承地
『肥前国風土記』はよく残っているが、景行天皇とヤマトタケルの伝承である。
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昭和28年に筑後川で、大水害があった。この水害で昔の地形が出てきた。吉野ヶ里遺跡付近も水浸しであった、宝満川も水浸しとなっている。
基肄(きい)郡、三根郡、養父郡、佐嘉郡、神埼郡などである。このあたりが景行天皇が行ったところである。
①基肆(きい)郡(三養基郡基山町)
②基肆郡の「長岡の神の社」(鳥栖市永吉町) ――永世(ながよ)神社
③ 基肆郡の酒井の泉(鳥栖市曽根崎町)
④養父郡の由来
⑤養父郡曰理(わたり)郷(鳥栖市)
⑥養父郡狭山郷(鳥栖市村田町)
⑦三根郡(三養基郡みやき町)
⑧三根郡米多郷(三養基郡上峰町前牟田字米多)
⑨神埼郡(神埼市)
「むかし、神埼の郡に荒ぶる神があった。往来の人が多数殺害された。景行天皇が巡狩されたとき、この神は和平(やわらぎ)なされた。それ以来二度と災いを起こすことがなくなった。そういうわけで神埼郡という」
⑩神埼郡船帆郷(神埼市千代田町)
「船帆の郷は郡役所の西方にある。おなじ天皇が巡幸なされたとき、もろもろの氏の人たちが、村中こぞって船に乗り、帆をあげて三根川の津に参集し、天皇のご用にお仕え申し上げた。それで船帆の郷という」
⑪神埼郡蒲田郷(神埼市千代田町)
⑫琴木(ことき)の岡(神埼市千代田町餘江)
⑬神埼郡宮処郷(佐賀市千代田)


1.13 肥前におけるヤマトタケル伝承
(1)熊襲の反乱
九州巡幸を終えて近畿に帰った景行天皇のもとに九州の熊襲がふたたび反乱を起こしたという報告が届いたため、再度九州へ軍を派遣することとした。
このため皇子のヤマトタケルを総大将として派遣することとした。『日本書紀』によると、このときヤマトタケルは十六歳であったという。

(2)九州へ出発
熊襲討伐を命じられたヤマトタケルは、人材を集めることとし、宮戸彦という者に命じて、美濃国の弓の名手として知られる弟彦公(おとひこのきみ)を招いた。すると、弟彦公は、伊勢の石占横立や尾張の田子稲置、乳近稲置などの豪族を引き連れてやってきた。
  ヤマトタケルは彼らを引き連れて、その年の十二月に熊襲国に到着した。

(3)熊襲を偵察
そして地形や人の暮らしぶりを観察した。熊襲の首長は「川上魁師(たける)」といい、名は「取石鹿文(とろしかや)」といった。『古事記』では、「熊曾建(くまそたける)」と記す。

(4)川上魁師(たける)の取石鹿文の拠点はどこか
①大隅半島
常識的に考えれば大隈国の贈於郡あたりを根拠とした部族のようにもおもわれる。大隈国肝属郡には「川上大明神」も祀られている。
②肥前地方に残された伝承
『肥前国風土記』によると、肥前地方にヤマトタケルの伝承が多く残されている。

(5)『肥前国風土記』の記事
・佐嘉郡・小城郡・藤津郡
ヤマトタケルが巡幸したとき、樟の茂り栄えたのをみて栄の国といったので「佐賀」の名となったといい、小城郡条に、皇名にしたがわず堡をつくって隠れた土蜘蛛がおり、これをヤマトタケルがことごとく滅ぼしたので「小城」の名ができたといい、藤津郡条に、むかしヤマトタケルが行幸したときこの津にきて日没となったため停泊し、翌朝遊覧して船のとも綱を大きな藤につないだので「藤津」という名が生じたという。

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結論
有明海の西から嘉瀬川、次に筑後川、筑後川から分かれて宝満川がある。
景行天皇が嘉瀬川と宝満川の間を制圧し、その後ヤマトタケルが嘉瀬川の左側、更にその後神功皇后が宝満川の右側の朝倉地方を制圧した。


2.景行天皇と日本武の尊との実在性について

2.1 抹殺博士主義について
■古文献についての三つの立場
(1)古典信奉主義
年代をふくめ、『古事記』『日本書紀』に記されていることは、なるべくそのままうけとろうとする立場で、天照大神=太陽であるとしている。
本居宣長などが唱えた。 

(2)半実半虚主義
『古事記』『日本書紀』に記されていることは、実と虚とがあいまじったものと考える立場。(これは安本の考えと同じ)
伊勢貞丈(さだたけ)、黒板勝美(くろいたかつみ)などが唱えた。

江戸時代に、故実家の伊勢貞丈(1717~1784)はのべている。
「語り違へもあり、聞き違へもあり、忘れて漏(も)れたる事もあり、事を副(そ)へたる事もあるべし。150年以前の事だにも、語り違へ聞き違へて、相違一決せざる事あり。……和漢ともに、太古の事は太古の書籍はなし。古への語り伝へを後に記したるものなれば、半実半虚なりと思ふべし。」(「安斎随筆」)

1932年に、日本古文書学を確立した東京大学の黒板勝美(1874~1946)の大著『国史の研究各説』の上巻が、岩波書店から刊行されている。これは、当時の官学アカデミーの中心に位置した黒板の代表的著作といってよい。

黒板は、あとで紹介する津田左右吉の日本神話作為説を、「大胆な前提」から出発した研究とし、それを「余りに独断に過ぎ嫌(きらい)がある」と批判する。そして、黒板は、神話伝説は、むしろ長い年月の間にだんだん作られてきたとする方が妥当であり、はじめは一つのけし粒であっても、ついに金平糖になるようなものであり、しだいに立派な神話となり伝説となるところにやはり歴史が存在するのではあるまいか、とする。
黒板は、『国史の研究 各説』上巻の冒頭で、およそつぎのようにのべて、「国史の出発点を所謂(いわゆる)神代まで、遡(さかのぼ)らしめ得る」と説く。

「史前時代と有史時代との境目を明瞭に区別しにくいことは、世界の古い国々みなそうである。その太古における物語は、霊異神怪や荒唐無稽(こうとうむけい)の話に富んでいて、神話や伝説などのなかに歴史がつつまれているといえる。

わが国の神話伝説のなかから、もしわが国のはじまりについての事がらを、おぼろげながらでも知ることができるのであれば、私たちは、国史の出発点を、所謂神代まで、遡らしめ得るのであり、神代史の研究が、また重要な意義を占めることになるであろう。
もっとも、神武天皇が始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)という尊称をもち、大和に都をひらいた第一代の天皇であるという古伝説にしたがって、あるいは、わが国の歴史の発展を、神武天皇から説明するにとどめようという人があるかも知れない。しかし、わが国のはじまりが、どのようであったかを、いくぶんでも知ることができるとするならば、従来神代といわれている時代に研究を進めることは、また緊要なことといわなければならない。」

ついで、黒板は、天照大御神よりもまえの神々は、皇室の祖先として奉斎(ほうさい)されていないことなどから、実在性はみとめがたいが、天照大御神は、「半ば神話の神、半ば実在の御方」と説く。

「天照大御神は、最初から皇祖として仰がれた方であったからこそ、三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を霊代(たましろ)をして、やがて伊勢に奉斎され、今日まで引きつづき皇室の太廟として、とくに厚く崇祀(すうし)されているのである。
元来史話なるものは、截然(せつぜん)と神話に代るものではなく、その境界は、たがいにいりまじって、両者をはっきりと区別することがむずかしい。これが、天照大御神の半ば神話の神、半ば実在の方として古典に現れる理由である。神話がほどよく史的事象を包んでおり、史的事象がほどよく神話化されている。したがって、須佐の男(すさのお)の命に関する古典の記載なども同様であるが、天照大御神の御代に皇室の基礎が定まり、わが国は天照大御神の徳によってはじまったことは、おぼろげながらみとめられなければならない。」

(3)抹殺博士主義 『古事記』『日本書紀』に書かれていることで、すこしでも疑わしい記述は、否定し、史料としてみとめない立場。
重野安繹(しげの やすつぐ)、津田左右吉など
幕末から明治時代にかけて活躍した歴史学者に、重野安繹(1982~1910)という人がいる。
帝国大学(のちの東京大学)の教授となり、国史科を設置した人である。
重野安繹は、『太平記』の資料価値を検討し、児島高徳(こじまたかのり)の実在性を否定し、「抹殺博士」の異名をとった。
この児島高徳について、現代の『国史大辞典』(吉川弘文館、1985年刊)は、つぎのように記す。
「高徳(たかのり)の事跡は『太平記』にみえるのみで、他の確実な史料にその名が伝わらないため、高徳を架空の人物とする論が、かつて行われたが、その後、田中義成(よしなり)・八代国治(やしろくにじ)らによって『太平記』の記事の傍証となる史料なども指摘され、また児島氏が今木・大富・和田らの一族とともに備前邑久郡(おおくぐん)地方を中心に繁衍(はんえん)した土豪であることもほぼ確かとされ、今では高徳の実在を疑う人は少ない。」

存在の確証のえられない人物・事績を否定することは、啓蒙期の史学に、よくみられる傾向である。イエス・キリストの実在否定説もあった。親鸞(しんらん)の実在否定もあった。現在でも、聖徳太子の非実在説を説く人がいる。

ドイツのニーブール(1776~1831)は、ローマ史の研究者であった。史料の文献学的批判を行ない、ローマ太古史をおおう神話・伝説の雲をとりのぞこうとした。
文献批判学(テキスト・クリティーク)は、史料が、史実をさぐる材料として役立つかどうか、もし役立つとすれば、どのていど役立つのか、などを吟味(ぎんみ)する。文献を、本文にしたがって、分析究明し、それを、現代の理性にしたがって判断し、さらに、異本、伝説などを参照して、史料の価値をさぐろうとする。
ニーブールの影響をうけたドイツのランケ(1795~1886)は、文献批判にもとづいて、歴史研究を行なう。これらの人々の研究により、歴史学は、ようやく近代的なものとなった。そして、ドイツのドロイゼン(1808~1884)、ペルンハイム(1850~1942)、フランスのラングロア(1863~1926)、セーニョボス(1854~1942)は、十九世紀に、歴史学研究法、あるいは、史料批判の方法を、概論的にまとめた。

十九世紀の後半から、このような文献批判学は、わが国にも、紹介された。
ラングロアおよびセーニョボスは、史料のあつかい方についてのべる。
「歴史家は、著書のすべての先験的記事を信用してはならない。それが虚偽でも、過誤でもないと信頼できないからである。
「史料のなかで一致しない記事に出会うまで、懐疑を延ばしてはならない。疑うことから開始しなければならない」(以上、高橋巳寿衛訳『歴史学入門』人文閣、1942年刊より)

このような文献批判の方法を、ひとくちでまとめるならば、つぎのようなテーゼとなるであろう。
「確実に信用できるテキスト以外は、史料として、用いてはならない」

■十九世紀文献批判学に対する反発
十九世紀文献批判学は、それなりの功績もあった。しかし、やがて、いきすぎを生ずるようになる。十九世紀的文献批判学の、大きな間題点は、その方法が、西欧や中国において、しばしば、失敗を重ねてきたことである。

十九世紀的文献批判学は、文献の記述内容にたいして、批判的、懐疑的、否定的な傾向がつよい。このような傾向のため、十九世紀的文献批判学は、史的事実の把握において、大きな失敗を、くりかえすこととなった。

おもな例を、三つほどあげよう。
(1)十九世紀の文献批判学者たちは、『イリアス』や『オデュッセイア』などを、ホメロスの空想の所産であり、おとぎばなしにすぎないとした。しかし、この結論は、学者としてはアマチュアの、シュリーマンの発掘によって崩壊した(ホメロスの叙事詩は、ゼウス、ポセイドーン、ヘルメス、アポロン、アフロディテなど、オリンポスの神々が登場し、二つにわかれて、ギリシア側とトロヤ側とを助けるなど、十九世紀的な文献批判の方法によるとき、とうてい確実に信用できる文献とはいえない。和辻哲郎は、その著『ホメロース批判』のなかで、「神々のとりあつかい方が、全然神話的である」とのべている)。『イリアス』や『オデュッセイア』の物語は、神話的であるにもかかわらず、シュリーマンの発掘のための重要な手がかりを提供した。

(2)十九世紀から二十世紀にかけて、インド学が成立した。インド学は、言語研究の分野からはしまった。
イギリスのウィリアム・ジョーンズ(1746~1794)は、1786年に、サンスクリット語が、ギリシア語、ラテン語などと源を同じくしていることを説いた。そして、ドイツの言語学者、フランツ・ボッブ(1791~1867)は、インド・ヨーロッパ語族に属する諸言語の比較文法を大成し、近代の学としての言語学が成立した。サンスクリットを通じて、大乗経典に接した文献批判学者たちは、そこに記されているブッダ・ゴータマ[釈迦(しゃか)]の超人的な行動、たとえば、光を放ったとか、空中を飛翔したなどという叙述に目をうばわれて、あるいは、ブッダ・ゴータマの歴史的存在を疑い、あるいは、それを、一種の太陽神話であろうとした。
しかし、ドイツのオルデンペルグ(1854~1920)は、原始仏教をパーリ語聖典を通じて研究し、『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』(釈迦入滅の前後を歴史的に描いた経典)などのくわしい研究から、疑いをはさむ余地のない確からしさをもって、ブッダ・ゴータマを、地上の人物にひきもどした。そして、さらに、1898年にいたり、フランスの学者プッペは、ネパール南境のピプラーヴにおいて、仏陀(ぶっだ)の舎利瓶(しゃりへい)(遺骨を入れた壺)を発掘した。壺の外側には、「この世尊なるブッダの舎利瓶は、釈迦族が、その兄弟姉妹妻子とともに、信の心をもって安置したてまつるものなり」と記されていた。

これは、『大般涅槃経』に、ブッダの遺骨は、マガダ国、釈迦族、リッチャヴィ族その他の使者に平等に分配され、使者たちは、それを自領にもち帰って、舎利塔(遺骨をおさめた塔)を建てて供養(くよう)したという、いわゆる「仏骨八分」の語り伝えと一致するものである。ブッダの実在は、それによって物的に証明された。

(3)中国においても、かつて、十九世紀的な文献批判がさかんで、学者、政治家として著名な康有為(こうゆうい)(1858~1927)が、『孔子改制考(こうしかいせいこう)』をあらわし、夏(か)・殷(いん)・周(しゅう)の盛世は孔子が、古(いにしえ)にことよせて説きだした理想の世界にすぎないとのべた。殷王統は、星体神話にすぎないともいわれた。
しかし、甲骨(こうこつ)文字の解読、殷墟の発掘は、『史記』の「殷本記」に記されていることが、王名にいたるまで、作為でも、創作でもないことをあきらかにした。
司馬遷が『史記』を書いたのは、西暦紀元前100年前後のことである。いっぽう、殷の国が存在したのは、西暦紀元前1600年~紀元前1060年ごろとみられている。司馬遷が「殷本記」を書くまでに、およそ、1000年の歳月が流れている。「殷本記」が、史実を伝えているとは、なかなか信じがたいことである。だが、康有為の知性よりも、『史記』の「殷本記」の記述のほうが、はるかに信頼できるものであった。古人は、私たちが考える以上に誠実だったのである。最近の中国考古学界では、夏王朝の実在説も、さかんに主張されている。

■山片蟠桃(やまがたばんとう)と津田左右吉(つだそうきち)
第二次大戦後の文献学の主流的な方法としては、津田左右吉(1873~1961)によって代表される文献批判学の方法があげられる。
津田左右吉の文献批判学は、直接的には、江戸後期の大阪の町人学者、山片蟠桃(1748~1821)の考えをうけつぐものである。
山片蟠桃は商人的実証主義、儒学(じゅがく)的・唯物論的合理主義のうえに立ち、『古事記』『日本書紀』の神話などは、荒唐無稽な話であり、そこに、史実の核の存在をみとめることは、とうてい無理であると考えた。
「地獄なし、極楽もなし我もなし、ただ有(あ)る物は人と万物。」
「神仏(かみほとけ)化け物もなし、世の中に、奇妙不思議の事はなおなし。」
このようにのべる蟠桃は、地獄も極楽も信じなかったし、神も神話も信じなかった。
山片蟒桃は、『夢之代』のなかでいう。
「日本の神代のことは、存して論ぜずして可なり(合理な話が、そこに存在しているままにして、議論しないのがよい)。」
「『日本書紀』の神代の巻は、とるべきではない。神武(じんむ)以後も、それほど信頼できず、第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇、第十五代応神(おうじん)天皇の記事から歴史書として用いることができる。神功皇后の三韓退治の話は、妄説(もうせつ)が多い。応神天皇からは、確実とすべきである。」
「神武天皇から千年ほどのあいだは、神代の名ごりであって、『古事記』『日本書紀』をはじめとする史書には、どのように記載されていようと、みなつくったものである。もちろん、神代のことは、なおさら、夢のようなものである。」
このように、山片蟠桃は、日本の神話は、つくられたものであり、神武天皇から仲哀天皇までの記録も、歴史的事実としては、信じられないことが多い、と説く。これは、津沺左右吉の学説の骨格に、ほぼそのまま一致する。

■実在主義的文献批判学について
文献批判学は、もともと十九世紀の科学である。西欧では、とくに、プラトンの諸著作についての研究などがきっかけとなり、実証主義的文献批判学の限界が、論理的にも明らかとなり、明碓な方法をもつ現代文献学が発生し、急速な発展をとげつつある。
たとえば、プラトンの諸著作についての問題のばあい、実証主義的文献批判学が、どのような結果をもたらしたかは、東大の西洋史家村川堅太郎と、京大の哲学者田中美知太郎とのつぎのような対談からもうかがわれよう(中央公論社「世界の名著」第7巻『プラトン11』の付録による)。
「村川 十九世紀の実証主義的な原点批判でずいぶんたくさんの偽作説があらわれましたね。
田中 ええ、『ソクラテスの弁明』さえも偽作だという。なぜかというと、プラトンはイデアを観照しているのだから、ソクラテスが弁明するというような作品を書くはずがない、というんですね。学説でも、バーネット・テーラー説が天下を風靡(ふうび)したときに、ぼくはどうもあやしいと思ったけれども、日本ではそれが公理みたいに扱われていたことがありましたね。十九世紀の原典批判も、いまから考えてみると、あれは一種の思考実験で、あるプリンシプルでもってどこまでも徹底させると、どういう結果になるかを見せてくれる。真偽論の基準みたいなものを立て、それを極端に厳格にあてはめると、プラトンの著作は、たいてい贋物になってしまう。」

わが国では、戦争などのため、外国との交流もとだえがちであり、現代文献学の技術などは、導入されることがなかった。
そのため、第二次大戦後も、極東の一角に、十九世紀の文献学、実証主義的文献批判学は生きのこり、繁茂の地をみいだした。
また、東京大学の学長もされた西洋史学者林健太郎は、その著『歴史と体験』(文態春秋社刊)のなかで、かつて、拙者の『神武東遷』(中公新書、中央公論社、1966年刊)をとりあげ、その方法論の大略を紹介したのち、つぎのように述べている。
「私もこれが今日の史料学の正しいあり方であると思う。曾(かつ)ての史料学の素朴実証主義は正に『樹を見て森を見ない』危険性を包蔵しているのである。」
現代のふつうの人は、「実証主義」ということばを、「たとえば、A・B二つの仮説があるばあいに、どちらの仮説が、観測事実や、調査結果や、実験結果によくあうかを、実際に検証して行く方法をとること」のような意味に、解釈しがちである。
しかし、「実証主義的文献批判学」の「実証主義」は、そういう意味ではない。そのころは、まだ「仮説」概念が、明確化されていない。
「十九世紀の実証主義的な原典批判」のばあいの「実証主義」は、十九世紀にさかんであったオーストリアのマッハなどの説いた「実証主義哲学」の方法による原典批判をさす。

『広辞苑』で、「マッハ」の項を引くと、つぎのように記されている。
「マッハ[Ernst Mach]オーストリアの物理学者・哲学者。近代実証主義哲学の代表者。超音速流の研究を行い、ニュートン力学に対する批判はアインシュタインに大きな影響を与えた。一方で、実証主義の立場からボルッフの原子説に反対しつづけた。主著『力学史』。」
マッハ主義
「マッハに始まる実証主義的な認識論の立場・傾向。物質や精神を実体とする考えに反対し、直接に経験される感覚要素だけが実在的であるとし、事物はすべて感覚の複合・巡関であり、物と心の区別も要素の結びつけ方の相違にすぎないとする。」

「科学的」の意味が、マッハと、私たちとでは、違っている。ひいては、十九世紀的実証主義的文献批判学の立場の人々と、私たちとでは、「科学的」の意味が、異なっている。要するに、マッハらは、目でみ、耳できき、手でさわることができるもの、直接経験できるもの、つまり感覚できるものだけを「実在的」であるとするのである。そして、「原子や分子のように、直接目でみることできないものの存在を考えるのは、形而上学的(内容のないことばのもてあそび゛)であるごとして、原子論的な立場の人々と対立した。
そして、原子の考えを抜きにして、科学を進めようとした。
しかし、今日、原子論に、反対する科学者はいない。原子の存在を考えることなしに、さまざまな事実を包括的にとらえ、的確な学問的予想をたてることは、困難であるからである。
十九世紀の文献批判学も、実証主義哲学を背景としている。
「過去は、実在したのか?」「時間は実在するのか?」「ことばの意味は?」仮説的外部世界実在論

ある人物、たとえば「ある天皇が、碓実に存在するという根拠がえられなかった」ということと、「その天皇は、確実に存在しないといえる」こととは、イコールではない。
「天皇が確実に存在するという根拠がえられなかった」ということは、「存在するかどうかわからない」「今後さらに検討されるべきことである」ということである。「歴史を構成する資料としては、みとめられない」ということと、「その資料が、造作であることが証明された」ということとは、同義ではない。造作であることを証明するためには、別に、だれが、いつ、どういう形で造作したのかなどが、確実にあきらかにされなければならない。抹殺博士主義は、このようなイコールでないもの、同義でないものを、しばしば混同している。すなわち、存在が証明されなければ「造作」があったとされ、「非存在」であるとされる。「造作」「非存在」などの証明法が、きちんとしていない。科学的でないということである。

2.2 倭王武の上表文
『宋書』「倭国伝」の倭王武の上表文に
「・・・昔から、祖禰(そでい)みずから甲冑をきて、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)にいとまがなかった。東は毛人[蝦夷(えぞ)、アイヌか]を征すること五十五国、西は、衆夷[熊襲(くまそ)、隼人(はやと)などか]を服すること六十六国。渡って海北を平らげること九十五国。・・・」とある。
これは、『古事記』『日本書紀』で景行天皇の九州、日本武(ヤマトタケル)の尊の東国、神功皇后の朝鮮半島のことを書いたことがらを表したものと思われる。

記紀に景行天皇の時代の蝦夷や、毛人のことが出ている。

『古事記』「景行天皇紀」
そこ[上総国]より入り幸して、ことごと荒ぶる蝦夷等(えみしども)を言向(ことむ)け、また山河の荒ぶる神等を平和(やは)して、[都へ]還(かえ)り上(のぼ)り幸(いでま)しし時に、

『日本書紀』「景行天皇紀」
爰(ここ)に日本武尊、則ち上総より轉(うつ)りて、陸奥國(みちのくのくに)に入(い)りたまふ。時に大きなる鏡を王船(みふね)に懸(か)けて、海路よ(うみつぢ)より葦浦(あしのうら)に廻(めぐ)る。横(よこしま)に玉浦(たまのうら)を渡りて、蝦夷(えみし)の境(さかひ)に蝦夷の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神(しまつかみ)・國津神等(くにつかみたち)、竹水門(たかのみなと)に屯(いは)みて距(ふせ)かむとす。

2.3 日本武の尊の墓
能褒野(のぼの)王塚古墳は、日本武(やまとたける)の尊(みこと)の墓である。
日本武の尊は、第十二代景行天皇の皇子である。古代史上の英雄である。九州の熊襲(くまそ)を征し、また、東国(あずまのくに)の蝦夷(えみし)を鎮定した。
日本武の尊は、東国からの帰途、近江の伊吹山の賊徒を征伐のさい、病を得て、伊勢の能褒野で没したという。

341-22

三重県亀山市田村町に、能褒野王塚古墳がある。日本武の尊の墓であるという伝承により、1879年(明治12)に陵墓と治定された。全長90メート、後円部径54メートル、後円部の高さ9.5メートル、前方部幅40メートル、前方部の高さ6.5メートル。円筒埴輪列をもち、鰭付(ひれつき)の朝顔形埴輪が、能褒野神社に所蔵されている。
その埴輪の特徴などから、能褒野王塚古墳の築造時期は、四世紀末から五世紀初頭と推定されている(大塚初重他編『日本古墳大辞典』東京堂出版刊)。
能褒野王塚古墳について、京都大学文学部史学科卒業の毎日新聞記者、岡本健一氏はのべる。
「四世紀代の畿内の古墳に多い鰭つきの朝顔形埴輪がここにも立てられている。地理上も畿内から東国へ進出するさいのルートに当たる。しかも、県主(あがたぬし)神社が近くに祭られている。県主は畿内政権の地方官だから、いよいよこの古墳の被葬者と畿内政権との結びつきを示唆する(三重県・亀山市両教委「亀山の古墳」)。」(『発掘の迷路を行く』下巻 毎日新聞社)


2.4 吉備と関東との結びつき
『日本書紀』によれば、景行天皇の皇子の日本武の尊が、東夷を討ちに行くときに、若日子建吉備津日子の命の子の吉備の武彦が景行天皇によって随従を命じられた。
この吉備の武彦(たけひこ)は、碓日坂(うすひざか)で、日本武の尊とわかれて越(こし)の国にまわり、美濃で合流し、伊勢から天皇のもとに、復命に帰っている。また、『日本書紀』によれば、吉備の武彦の娘の吉備の穴戸(あなと)の武媛(たけひめ)は、日本武の尊の妃にもなっている。
考古学者の小林行雄氏によれば、三角縁神獣鏡の同じ鋳型でつくった鏡(同型鏡)は、関東に達しているものは、また、吉備にも多いという(『古墳の話』岩波新書)。湯迫(ゆば)の備前車塚古墳から発見された13枚の鏡のなかには、三角縁神獣鏡の同型鏡が、8種9枚もあり、そのうち4面の同笵鏡は、関東地方に分散して、発見されているものである。
このようなことから、小林行雄氏はのべている。
「同笵(型)鏡の分配を考えるばあいに、ただ地方にあって分配をうけたもののほかに 積極的に分配に参加協力したものの存在をみとめる参考にはなろう。」
「こういう事実がある以上、吉備の豪族が東国の経営に参画したという伝承をもっていることももっともなことだと思われる。
私は、備前車塚古墳は、吉備の武彦その人の墳墓である可能性があると考える。341-23

日本武の尊は、甲斐では、酒折(さかおり)の宮にいたという。酒折の宮は、甲府市も酒折の地といわれ、甲斐銚子塚古墳の地にかなり近い。
そこから、三角縁神獣鏡が出土している。(丸かこい番号は図の番号)

岡山県岡山市湯迫(ゆば)車塚古墳の三角縁神獣鏡と同じ三角縁神獣鏡が出ている関東の古墳
 ・山梨県中道長甲斐銚子塚古墳--①
 ・群馬県富岡市北山茶臼山古墳--②
 ・静岡県菊川市上平川大塚古墳--④

吉備の武彦の時代の武埴安彦(たけはにやすひこ)の墓と考えられる京都府山城町椿井大塚古墳と同じ三角縁神獣鏡が出ている関東の古墳
 ・神奈川県平塚市真土大塚山古墳(丸かこい番号は図の番号)--③

このような事実は『日本書紀』の記述をふまええればうまく説明できない。

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