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第336回 邪馬台国の会
仁徳天皇陵古墳
「纒向学」はどこへ行くか(第3回)
「魏志倭人伝」を徹底的に読む(第18回)


 

1.仁徳天皇陵古墳

■明治の高官、堺県令・税所篤(さいしょあつし)は仁徳天皇陵を盗掘したのか?
仁徳天皇陵古墳は、日本最大の巨大前方後円墳である。墳丘全長486メートル。わが国第2位の巨大前万後円墳の応神天皇陵古墳の、墳丘全長425メートよりも、60メートルも長い。体積からいっても、仁徳天皇陵古墳はわが国最大のものである。
大阪電気通信大学教授の小沢一雅氏の計算では、仁徳天皇陵古墳と応神天皇陵古墳との墳丘体積は、つぎのようになっている(『季刊邪馬台国』50号、1992年刊所載の、小沢氏の論文参照)。

・仁徳天皇陵古墳・・・164万立方メートル
・応神天皇陵古墳・・・140万立方メートル
仁徳天皇陵古墳の工事は延べ140万人以上となると考えられる。
(下図はクリックすると大きくなります)

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多くの天皇陵古墳は盗掘にあっており、前方後円墳の場合、後円部の頂上から、まっすぐ下に掘りさげると、主体となる棺、または、棺をおさめている玄室に行きあたる。仁徳天皇陵古墳の後円部主体は、江戸時代には、盗掘にあって、あばかれていたようである。

江戸時代前期~中期の儒者、新井白石(1657~1725)の文章につぎのようにある。

「仁徳のもずのの御陵あばかれて、石棺の蓋石(ふたいし)、堺の役所の庭の踏石になれりという。」(「新井白石全集」第五巻)
つまり、仁徳天皇陵古墳の石棺の蓋石が、堺奉行所の庭の踏石になっていた、というのである。

また、宝暦7年(1757年)成立の『全堺詳志(ぜんかいしょうし)』という本に、次のようにある。
「(仁徳帝陵に、)石の唐櫃(からびつ)[大きな箱]あり。石の蓋、長さ一丈五寸(3.18メートル)、幅五尺五寸(1.67メートル)、厚さおよそ八寸(約24センチ)。(中略)空櫃なり(空である)。千四、五百年を歴たるなれば、盗賊の発(あば)きたるならん。」

ここまでは、後円主体部についての話である。

一方、前方後円墳の前方部からは被葬者の生前の持ち物などが、出土することがある。
明治5年(1872)9月7日に風水害があり、仁徳天皇陵古墳の墳丘の土が崩れ、前方部の中腹から、竪穴式石室と、そのなかに納められた石棺、甲胄、ガラスの壺や皿などが発見されたという。その「石棺・石郭図」や「甲胄図」が残されている。

明治時代の初期に、廃藩置県が行われたころ、河内・和泉の2国を合わせた堺県という県があった。明治4年(1871)以後、薩摩の鹿児島藩出身の税所篤(さいしょあつし)[1827~1910](下図)という人が、堺県令(知事)であった。336-1
県令は、今日のように選挙で選ばれるのではなく、中央政府によって任命されて赴任するものであった。
仁徳天皇陵古墳の前方部中腹からの甲冑などの出土については、台風や洪水による不意の事故によるものではなく、意図的、計画的な発掘で、盗掘に近いものであった、とする説がある。
堺県令、税所篤が、仁徳天皇陵清掃に名を借りて、盗掘的なことを行なった、というのである。この盗掘説に対する批判もある。批判説は、石室の露出状況を示す詳細な図面が、市中に残されていて、役人だけでなく、一般にも知られていたことなどを理由とする。
また、甲胄などを出土した前万部の竪穴式石室は、人を葬ったものなのか、御物などの、物だけを葬ったものなのか、という問題がある。

次の理由により、物だけを埋納したともみられるのである。
①明治政府の役人が、「石櫃(いしびつ)は宝器にて、柩(ひつぎ)ではなく」と記している。
②前方後円墳は、一般的に後円部の頂上の下付近に、おもな埋葬施設がある。前方部は、もともとは祭祀を行ったりする場所であったといわれる。しかし5世紀頃は、前方部と後円部のあいだのくびれ部の両がわまたは片がわに方壇状の部分、いわゆる「造出し」を付設させ、そこで祭祀を行ったであろうといわれている。仁徳天皇陵古墳には、造出しがついている。祭祀を造出しで行うようになるにつれ、前方部は、被葬者生前の持ち物などを納めるようになったといわれる。
③柳本天神山古墳(奈良県天理市)は、崇神天皇陵古墳の陪塚(ばいちょう)[大きな古墳に付設された形の小古墳]であった可能性が考えられている古墳である。

ここで、「造出し」とは5世紀頃の古墳にあるものである。前方後円墳の初期は祀るための前方部が小さかったが、だんだん前方部が大きくなった。そして、前方部に持ち物を埋めるようになり、祀る場所がなくなり、そこで「造出し」造ったと考えられている。


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■ボストン美術館に所蔵される仁徳天皇陵出土鏡の真偽
東京大学の教授などであった考古学者の斎藤忠氏は、2013年に、104歳で亡くなった。日本を代表する考古学者の一人であった。
斎藤忠氏は、現在宮内庁が仁徳天皇の陵と認める仁徳天皇陵古墳{=百舌鳥耳原中陵、大山(だいせん)古墳[大仙古墳]ともいう。大阪府堺市大仙町}を、仁徳天皇とすることを、『適切』としておられる。
これに対し、同志社大学の教授であった考古学者の故森浩一氏は、仁徳天皇陵古墳に、仁徳天皇が葬られていることを疑問としておられる。

私は、斎藤忠氏などの意見に賛成である。仁徳天皇陵古墳には、仁徳天皇が葬られているとみてよいであろうと考える。
その理由は、次のようなものなどである。
①前方後円墳は、後代になるほど、前万部が発達する傾同がある。仁徳天皇は、5世紀前半頃に亡くなった天皇である。仁徳天皇陵古墳の前方部の発達の度合は、5世紀前半頃のものとみて、とくに不都合はない。
②「延喜式」は、仁徳天皇陵の兆域を、「東西八丁、南北八丁」と記す。大きい。『延喜式』には、仁徳天皇陵は、和泉の国の大鳥郡にある、と記されている。和泉の国、大鳥郡の付近で、最大の前方後円墳を求めれば、仁徳天皇陵古墳となる。
朝廷による天皇陵の管理が、ゆきとどかなくなるのは、「延喜式」の編纂された時代よりも、あとの時代である。
③仁徳天皇陵古墳を築造するには、のべ140万人以上が動員されたであろうと試算されている、膨大な人員が動員されている。だれの陵であるかは、伝えられやすかったであろう。誤った伝えは、訂正されやすかったとみられる。

仁徳天皇陵古墳をめぐっては、奇妙な話がある。
アメリカのボストン美術館に、仁徳天皇陵古墳出土として登録されている細線式獣帯鏡と、環頭大刀の柄頭(つかがしら)[大刀の柄の握るとこの端の部分](右図)、三環鈴、馬鐸2点の計5点が存在している。
これらをもとに、仁徳天皇陵古墳に、仁徳天皇が葬られていることを疑う見解がある。次のような論理による。336-20
①これらの5点は、仁徳天皇陵古墳出土のものと考える。
②仁徳天皇陵古墳出土とみられる銅鏡や柄頭は、523年に亡くなった百済の武寧王(ぶねいおう)の陵からの出土品に、「じつによぐ似ている」。
③そこから、仁徳天皇陵古墳の築造年代として。6世紀が考えれる。これは、5世紀の天皇と考えられる仁徳天皇と年代があわない。

しかし、まず、ボストン美術館に所蔵されている鏡や柄頭が、本当に仁徳天皇陵古墳から出土したものかどうか、疑問である。

2011年の8月に、宮内庁書陵部がボストン美術館蔵の5点について、公式調査を行い、年代や購入記録から、「(仁徳天皇陵古墳出土の)可能性は極めて低い」という見解をまとめ、当時ニュースとなった。「5点をセットで埋納したなら、その古墳の築造は6世紀前半。(5世紀半ばと思われる大山古墳とは)年代が異なる可能性が高い」と結論づけた。
また、ボストン美術館蔵のものが、武寧王陵出土のものと、いわれているほど似ているかどうかも、疑問がある。

『古事記』の記す没年干支によれば、仁徳天皇の没年は、西暦427年にあたる年である。この没年には、『日本書紀』にみられる年代の延長は、みとめられない。

筑波大学の川西宏幸教授の円筒埴輪による編年からは、仁徳天皇陵古墳の築造年代は、430年~500年頃。
ともに5世紀である。『古事記』の記す仁徳天皇の没年と、仁徳天皇陵古墳の築造年代とが重ならないとは、いいきれないのである。

なお、宮内庁書陵部の研究によると、ボストン美術館所蔵の銅鏡など5点は、ボストン美術館に勤務しており、のちに、館の東洋部長にもなった岡倉天心が1906年に、京都・奈良に出張したさいに、一括購入したものという。

■仁徳天皇(にんとくてんのう)は人名事典によると下記のように書かれている。
記・紀系譜による第16代天皇。在位は5世紀前半ごろ。父は応神天皇。母は仲姫(なかつひめのみこと)。『日本書紀』によれば、応神天皇の死後、皇太子である弟が兄をさしおいて位につくのをよしとせず自殺したため即位。人家から炊煙のあがらないのをみて一時課税をやめ、人民の困窮をすくったという。都は難波の高津宮(大阪市東区)で、難波天皇とも称される。「宋書」倭国伝の倭王讃(さん)を仁徳とする説もある。仁徳天皇87年1月16日死去。(『古事記』では83歳)。墓所は百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)(大阪府堺市。日本最大の前方後円墳)。別名は大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと)

淡海三船が「仁徳」という漢風諡号(しごう)を付けたのは、この「一時課税をやめ、人民の困窮をすくった」逸話から来ているようだ。

仁徳天皇陵古墳の時代は5世紀ごろである。
その根拠の一つは前方後円墳の年代を推定する方法がある。前方後円墳は時代が新しくなるにつれ、前方部が発達することから、横軸(x軸):前方部の幅/後円部の直径とし、縦軸(y軸):前方部の幅/墳丘全長として、グラフを描くことにより、推定するものである。このグラフから、仁徳天皇陵古墳は5世紀型古墳群の範囲に入ることが分かる。
(下図はクリックすると大きくなります)

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■応神天皇陵古墳
『日本書紀』の応神天皇紀では、応神天皇陵古墳のことが記載されていない。このことから、応神天皇陵古墳は無かったとする説がある。 しかし、雄略天皇紀で逸話の中に間接的に誉田陵(ほむたのみささぎ)[応神天皇陵]として記述されている。

『日本書紀』雄略天皇紀 九年七月の条
「月夜の埴輪馬」
秋七月の壬辰(みずのえたつ)の朔(ついたち)に、河内国より言上があって、「飛鳥戸郡(あすかべのこおり)の人である田辺史伯孫(たなべのふひとはくそん)の女(むすめ)は、古市郡の人である書首加竜(ふみのおびとかりょう)の妻である。伯孫は、その女が、子供をお産したと聞いて、聟の家に行って祝賀し、月夜に帰途についた。蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵(応神天皇陵)のもとで〔蓬蔂、これを伊致寐姑(いちびこ)という〕、赤馬に乗った人に出逢った。その馬は、そのとき、蛇のようにうねりながら行き、竜のごとくに首をもたげた。急に高く跳びあがって、鴻(かり)のように驚いた。その異(あや)しい体が、峰のようになり、あやしい形相が、きわだってあらわれた。伯孫は、近づいて見て、心の中で、手に入れたいと思った。すなわち、乗っていた葦毛の馬に鞭(むち)うって、頭をそろえて、轡を並べた。そうすると、赤馬が、おどりあがるさまは、塵埃のようにさっとあがっては消え、走りまわる速さは、滅没するよりももっと速かった。
一方、葦毛の馬は、おくれてしまって、遅くて追いつくことができなかった。その速く走る馬に乗っていた人は、伯孫の願いを知って、とまって馬を交換し、別れの言葉をのべて去っていった。
伯孫は、遠く走る馬を得て、たいへんよろこび、走らせて廐(うまや)に入れた。鞍をおろし馬に秣(まぐさ)をあたえて眠った。その翌朝、赤馬は、土馬(はにま)[埴輪の馬]に変わっていた。伯孫はあやしんで。誉田陵にとってかえして探してみたら、葦毛の馬が、土馬の中にいたのを見つけた。取りかえして。かわりに土馬を置いた」と言った。

この話から、『日本書紀』が編纂されたころ、応神天皇陵古墳があったことが分かる。


2.「纒向学」はどこへ行くのか(第3回)

■考古学解析のあるべき姿
ダーウインの『進化論』について言えば、一つ一つの化石だけを丁寧に調査して記録したとしてもただちに『進化論』が出て来たことにはならない。調査結果を相互比較して、そこにどのような規則性があるかを見出だしていかなくてはならない。

しかし日本の考古学については、一つ一つの遺跡の調査は丁寧に行うが、そこからの規則性を見出すのが、苦手なようである。

穴沢咊光(あなざわわこう)氏は「梅原末治論(前編)」(『季刊邪馬台国』120号)で次のように述べている。「金関恕(ひろし)は、梅原末治が「あまりにも膨大な知識」をもっていたために、「法則化に対する例外を常に見いだして反発した」と述べているが、うがった観察であろう。・・・・梅原は「コツコツと遺物自体を徹底的に調べ上げる」ことにかけては万人の及ばぬ努力家で天才的な才能を発揮したが、「それを結び合わせて研究を進めて行く」ことはどうも苦手であったようだ。」

このように、梅原末治氏は膨大な知識から、他の学者が新たな法則的なことを唱えると、その法則性に合わない事例を示して、その法則性をつぶすのである。

日本の考古学は、この流れが続いている。遺跡などを一つ、一つ丁寧に調査することはしても、そこから法則性、規則性を見出すことが出来ていない。また、自説と仮説の区別がない。そして、自説に固着する。

あるべき姿は客観的な基準を設けて、自分の仮説は棄却されない仮説だとして行くべきである。それにはデータを数量化して統計的な処理が必要となる。


■中国北方系の鏡から、南方系の鏡への推移
・鉛同位体比の分布のグラフ
中国北方の燕系の銅材料とされている直線Dと、前漢鏡主要分布域の領域A、三角縁神獣鏡分布域の領域Bに分かれる。境域Aは更に小型仿製鏡Ⅱ型分布域の小さい範囲がある。

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・我が国で最初に出てくる鏡は多鈕細文鏡である。これは燕の国系の銅原料で細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈と同じであり、鉛同位体比ではDの領域となる。そして、文様は燕の国系である。
・前漢鏡の「照明」「日光」「清白」「日有喜」銘鏡は文様は中国北方系で、銅原料は北方系であり、鉛同位体比はAの領域となる。
・貨泉も銅原料は北方系であり、鉛の同位体比はAの領域である。
・雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡や平原遺跡出土の方格規矩鏡も文様は北方系で、銅原料は北方系である。そして同位体比はAの領域である。
・小型仿製鏡第Ⅱ型も文様は北方系で、銅原料は北方系である。そして鉛同位体比はAの領域である。
・西晋鏡[位至三公鏡、双頭竜鳳文鏡、蝙蝠鈕座長宜子孫銘内行花文鏡、夔鳳鏡(きほうきょう)]になって文様は北方系のままで、銅原料が南方系に変わる。そして、鉛同位体比がBの境域に変わる。これは中国北方では銅原料が不足して、呉が滅んで、南の銅が入手できるようになったからである。
・画文帯神獣鏡となり文様が南方系に変わり、銅原料が南方系で、鉛同位体比もBの領域ままである。これは東晋となり、都も建鄴(南京)に変わたので、南方色は当然である。
・三角縁神獣鏡は画文帯神獣鏡と同じように南方系文様で、南方系の銅材料で、鉛同位体比もBの領域である。
これらをまとめると下表のようになる。

鏡の種類 「文様」が、中国北方系か南方系か 「銅原料」が、中国北方系か南方系か 鉛同位体比の分布領域 総合判断 わが国での出土中心地 対応するおもな中国王朝 中国王朝の都 中国王朝の動き
多鈕細文鏡・細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈 (燕系) (燕系) D (燕系) 北九州 薊(けい)[北京の西北] BC222年燕滅亡
前漢鏡の「照明」「日光」「清白」「日有喜」銘鏡など 北方系 北方系 北方系 前漢 長安 BC206年前漢成立
(前漢BC206年~AC8年)
8年前漢滅亡
(貨泉) (北方系) (北方系) (A) (北方系) (北九州) (新) (長安) (新9年~23年)
雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡
(平原遺跡出土の方格規矩鏡)
北方系 北方系 北方系 北九州 後漢~魏 洛陽 25年後漢成立
(後漢25年~220年)
220年魏成立
(魏220年~265年)
小型仿製鏡第Ⅱ型 北方系 北方系 265年西晋成立
西晋鏡(位至三公鏡、双頭竜鳳文鏡、蝙蝠鈕座長宜子孫銘内行花文鏡、夔鳳鏡) 北方系 南方系 過渡期 西晋
280年呉滅亡
(西晋265年~316年)
画文帯神獣鏡 南方系 南方系 南方系 畿内 東晋 南の建鄴
(南京)
317年東晋成立
三角縁神獣鏡 南方系 南方系 (東晋317年~420年)
(古墳時代出土の方格規矩鏡) (?) (南方系) (B) 420年南朝宋成立


■鏡に関する説明
①「照明」「日光」「清白」「日有喜」鏡
前漢鏡のうち、銘帯を主文様としたものの総称を異体字銘帯鏡(いたいじめいたいきょう)という。樋口隆康氏によって提唱された。このなかに「照明」「日光」「清白」「明光」が含まれる。
『洛陽焼溝漢墓』(中国科学院考古学研究所編、科学出版社、1959年刊)から「照明鏡」の例を下図に示す。
また、異体字銘帯鏡が北九州から多く出土することが分かる。

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②雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡
内行花文鏡は、中国鏡のうちの代表的なもののひとつである。内行花文鏡は、内がわに、半円弧形を連環状にめぐらし、花びらを内むき(内行)に連ねたような図形があるので、「内行花文」(「文」は「模様」の意味)の名がある。内行花文鏡は、後漢時代から西晋時代にかけて制作されたものが多く、中国、朝鮮、わが国の墳墓から数多く出土している。
本来が、花の形であるという証拠がないため、連弧文鏡ということばを用いるべきだという意見がある。中国の考古学者、および、日本の中国考古学者は、ふつう「連弧文鏡」ということばを用いる。
「長宜子孫」などの文字のはいっているものを、「長宜子孫銘内行花文鏡」という。
そして、「雲雷文」と、「雲雷文帯」のはいっているものを、「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」という。

雲雷文は渦巻状・同心小円などの変異がある。 雲雷文帯は、松葉文・同心円的平行線のものなどの変異がある。
下図は雲雷文連弧文(雲雷文内行花文鏡)である。これも北九州から多く出土することが分かる。このグラフ四葉鈕座内行花文鏡(四連)・八葉鈕座内行花文鏡の数(大略、雲雷文長期子孫銘内行花文鏡と重なりあうとみられる)ただし、平原遺跡出土鏡については、報告書『平原遺跡』(前原市教育委員会、2000年刊)によってデータをおぎなった。
(下図はクリックすると大きくなります)

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③方格規矩鏡
下図は平原遺跡出土の「方格規矩鏡」で『邪馬台国と安満(あま)宮山古墳』(吉川弘文館1999年刊)による。
これも北九州から多く出土することが分かる。このグラフの方格規矩鏡(四神)鏡の数については、報告書『平原遺跡』(前原市教育委員会、2000年刊)によってデータをおぎなった。
(下図はクリックすると大きくなります)

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また、内行花文鏡と方格規矩鏡は庄内期の鏡である。これは小山田宏一氏や寺沢薫氏の資料からも分かる。
(下図はクリックすると大きくなります)

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④小形仿製鏡Ⅱ型
日本で造られた鏡で、箱式石棺から出土する例が多い。森浩一氏や奥野正男氏は邪馬台国時代の鏡だとしている。
小形仿製鏡Ⅱ型は下図からも北九州から多く出土することが分かる。このグラフのもとデータは田尻義了(たじりよしのり)著『弥生時代の青銅器生産体制』(九州大学出版会、2012年刊)による。なお、田尻義了「弥生時代小型仿製鏡の集成」(『季邪馬台国』106号、2010年刊)参照。

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⑤位至三公鏡(いしさんこうきよう)336-11
左と右とに、双頭の獣の文様を配する。獣の文様は、ほとんど獣にみえないことがある。小形の鏡である。
中国では、後漢末にあらわれるが、おもに西晋時代に盛行した。
双頭竜鳳文鏡の系統の鏡である。双頭竜鳳文鏡にくらべ、獣の文様がくずれている。
双頭竜鳳文鏡では、主文様の外がわに連弧文があるが、位至三公鏡では、連弧文がないのがふつうである。
また、「位至三公鏡」、「双頭竜鳳文鏡」、「蝙蝠鈕座長宜子孫銘内行花文鏡、「夔鳳鏡(きほうきょう)」などは西晋鏡である。

福岡県前原市大字井原出土(『倭人と鏡』埋蔵文化財研究会刊による位至三公鏡の図を右図に示す。

 

位至三公鏡と西晋鏡の出土数を下図に示す。位至三公鏡は中国では洛陽など北方で多く出土し、西晋鏡は日本では北九州に多く出土する。
(下図はクリックすると大きくなります)

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洛陽ふきん出土の「位至三公鏡」と、墓誌からの中国出土「位至三公鏡」の年代を下記に示す。
呉が滅んだ280年以後の出土のものが多い。ただ、後漢晩期のものがある。

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⑥双頭竜鳳文鏡(そうとうりゅうほうおうもんきよう)336-14
一つの体躯の両端に、竜または鳳凰の頭がついている。これを一単位の文様とするとき、二単位(二体躯分)が、左右に描かれている。
一単位の二つの頭がともに竜頭のこともあれば、一方が竜頭、一方が鳳頭のこともある。「双頭・竜鳳・文鏡」と区切るべきである。
文様の基本は、S字形または逆S字形で、点対称。
右図は京都国立博物館蔵・樋口隆康著『古鏡図録』新潮社刊による。

双頭竜鳳文鏡は鈕のまわりにはっきりした竜と鳳凰の像があるが、位至三公鏡はこの竜と鳳凰がくずれた像となっている。
双頭竜鳳文鏡は内向花文が入っているが、位至三公鏡にはない。
それ故、位至三公鏡は双頭竜鳳文鏡をベースとして造られている事が分かり、位至三公鏡は双頭竜鳳文鏡より新しいことになる。

寺沢薫氏は双頭竜鳳文鏡は古く、後漢の時代までもって行けると言うが、鉛の同位体比では双頭竜鳳文鏡も位至三公鏡も同じである。そんなに違いはないのではないか。

 

⑦蝙蝠鈕座内行花文繞(こうもりちゅうざないこうかもんきょう)
西晋を中心とする時代になると、鈕(まん中のつまみ)座のまわりの文様が、葉(スペード)の形から、蝙蝠の形へ変化したものが多くなる。 雲雷文内行花文鏡で、鈕座のまわりの文様が蝙蝠の形をしているものを「蝙蝠鈕座内行花文繞」という。
なお、「蝙蝠鈕座内行花文鏡」のことを、「蝙蝠座鈕内行花文鏡」とよぶ研究者もいる。「蝙蝠鈕座内行花文鏡」は、ほぼかならず「長宜子孫」などの文字がはいっており、「長宜子孫銘内行花文鏡」の一種である。

参考までに、インターネットを検索すると、検索数は、つぎのとおりであった(2014年12月3日調べ、グーグルによる)。
  蝙蝠鈕座内行花文鏡……124件
  蝙蝠座鈕内行花文鏡…… 32件
約四倍の違いがある。この稿、一応、多数の人のよび方にしたがう。

日本では、北九州を中心に出土する。日本出土のものは、3世紀の後半以降に製作のものがほとんどか。(下図は、福岡県糟屋郡粕屋町大字大隈の、上大隈古墳出土のものによる。『倭人と鏡』〔埋蔵文化財研究会編集・発行〕所蔵の図をもとに製作。)
これも中国では洛陽など北方に多く出土する。
(下図はクリックすると大きくなります)

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⑧画文帯神獣鏡336-16
一つの体躯の両端に、竜または鳳凰の頭がついている。これを一単位の文様とするとき、二単位(二体躯分)が、左右に描かれている。

右図は川西宏幸著『同型鏡とワカタケル』(同成社、2004年刊)にもとづいて作成。面径10.3cm


 

 

下図のように、県別出土状況は畿内が多い。このグラフのもとデータは安本美典著『大崩壊「邪馬台国畿内説」』[勉誠出版、2012年刊]による。
(下図はクリックすると大きくなります)

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⑨三角縁神獣鏡
下図の三角縁神獣鏡は京都府椿井大塚山古墳出土の三角縁獣四神四獣鏡で直径23.2センチである。
下図のように、県別出土状況は畿内が多い。このグラフのもとデータは下垣仁志著『三角縁神獣鏡研究辞典』[吉川弘文館、2010年刊]による。
(下図はクリックすると大きくなります)

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⑩古墳時代の方格規矩鏡
古墳時代になって出てきている方格規矩鏡の鉛の同位体比はBの領域である。しかしごくわずかであるが、領域Aのものがある。そのようなAの領域のものは古い時代のものが伝世されたのではないか。

 

■位至三公鏡や画文帯神獣鏡は何時の時代のものか?
寺沢薫氏は、以前に紹介した文章のなかでのべる。
「(安本は、)画文帯神獣鏡の諸型式の系譜を混淆し、加えて出現期古墳の画文帯神獣鏡のみを厳密に抽出せずに議論するという。位至三公鏡の場合とまったく同じ方法的欠陥の轍を踏んだ思考である。」

これに対して、
寺沢薫氏は位至三公鏡の1面が後漢晩期のものがあるから、日本にある位至三公鏡も古い時代にさかのぼるべきと言っているが、二つ問題がある。一つは日本ではタイムラグある。貨泉では200年位のタイムラグが想定される。「新」の時代から「後漢」は時代が下るが、ある程度タイムラグを考える必要があるのではないか。二つ目は位至三公鏡の古い形式も新しい形式も鉛の同位体比はB領域で同じである。そんなに古い時代を想定できるのであろうか、年代的にあまり差が無いのではないか。

寺沢薫氏は、「画文帯神獣鏡」や「位至三公鏡」の諸型式を検討すべきであるという。
まず、つぎのような議論ができる。
①寺沢薫氏によれば、ホケノ山古墳は、「出現期古墳」といえる。
②樋口隆康氏によれば、ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡と、同種の鏡として、熊本県の江田船山古墳出土鏡があげられている(『ホケノ山古墳調査概報』学生社、2001年刊)。
③大塚初重氏他編の『日本古墳大辞典』(東京堂出版、1989年刊)では、江田船山古墳の築造年代は、「5世紀末の可能性が強くなる。」とある。それは、江田船山古墳出土の銀象嵌大刀銘のなかに、埼玉県の稲荷山古墳出土の金象嵌刀銘の「獲加多支鹵大王」(雄略天皇)と共通する銘がみられるからである。
④このように、ホケノ山古墳出土の画文帯神獣鏡は、わが国においては、それよりまえの時代の鏡とは、つながらない。あとの時代の江田船山古墳出土鏡などとつながる。江田船山古墳の築造年代は、やや根拠をもつ。
⑤以上から、ホケノ山古墳や、そこから出土した画文帯神獣鏡の年代として、五世紀末を考えることもできる。

ホケノ山古墳は庄内期であるから、ホケノ山古墳から出土した「画文帯神獣鏡」は邪馬台国時代に持って行けると言っている。しかし「画文帯神獣鏡」は鉛の同位体比はBの領域である。邪馬台国時代は鉛の同位体比はAの領域なのではないか。時代が合わない。

出現期古墳の画文帯神獣鏡を抽出しても、寺沢薫氏流のことばによる「解釈主義」によれば、ホケノ山古墳の年代を、5世紀末にさげることも可能になる。

 

3.「魏志倭人伝」を徹底的に読む(第18回)

■「水行二十日」「水行十日、陸行一月」について
『魏志倭人伝』は帯方郡から女王国まで一万二千里と記している。帯方郡から狗邪韓国まで七千里、狗邪韓国から対馬まで千里、対馬から一支国まで千里、一支国から末盧国まで千里と書いてある。つまり帯方郡から末盧国まで一万里である。残りは二千里となり、二千里では九州の域を出ることはできない。
ところが、不弥国から投馬国まで「水行二十日」、投馬国から邪馬台国まで「水行十日、陸行一月」とある。どうみても、二千里の範囲と「水行二十日」「水行十日、陸行一月」に矛盾がある。そこで、「水行二十日」「水行十日、陸行一月」について考えてみる。

安本美典著『吉野ヶ里遺跡と邪馬台国』(大和書房1994年刊)に古代人は一日にどのていど歩いたかから、実地調査をおこなった記述がある。

古代人は一日にどのていど歩いたか、
「水行二十日」「水行十日、陸行一月」などの日程記事については、最近、二人の学者によって、別々の見地から、それほど遠くまでは、進めなかったとする見解が提出されている。

その一人は、東海大学の茂在寅男(もざいとらお)教授である。
茂在氏は、リアス式海岸沿いに歩いて、現実に、一日どのていど歩けるかを、東海大学の学生や、現地の郷土史研究家たちの協力を得つつ体験してみた。
茂在氏はいう。
「熱暑の中、道なき道を歩む。想像以上の難行苦行の連続であった。……リアス式海岸伝いに歩くと、至る所が難所だらけで、一日の行程は7キロがやっとであり、そのペースで二日歩いて到達した所は、直線距離にして僅かに5キロしかない地点に到達するのがやっと、という場合の連続といえた。」

「この実地踏査によっていえることは、例えば魏使が佐賀県の呼子港に第一歩を印したとして、陸行一月では、せいぜい佐世保市あたりまでしか行けない、ということを確認できたのが実情である。」
「私は言いたい。『唯の一日で良いから、私と同じ体験をしてから意見を述べてくれ』と。」(以上、大和書房刊『東アジアの古代文化』1987年秋、53号)

「現実に『歩く』という実験を伴わずに思考すれば、どんな人でも、『陸行一日の距離』を大き目に算定するということである。ところで、解り切っていることでありながら、実験を伴って、毎日毎日、連続歩行を続けたうえで、もう一度『陸行一日の距離』を算定すると、これは、想像以上に数字が小さくなってしまうのである。このこと自体、私は多くの協力者や学生と行動をともにして確認しているのである。」

「普通一般の人は、『万歩計』という小計器が普及していることでも解るとおり、よほど努力しても毎日毎日万歩を歩き続けることは困難なのである。普通一般の人が普通に長距離を歩く場合には75センチより歩幅は若干狭いといえる。すなわち、一日行程は連日歩行な場合7キロぐらいではなかろうか、ということを『万歩計』使用経験者は納得するのではないであろうか。これとても一般の道路やゴルフ場のように整地されている平地を歩く場合である。」(以上、梓書院刊『季刊邪馬台国』35号所載「実地踏査にもとづく『倭人伝』の里程」、1988年)

たしかに、ふつうの人が、ふつうに歩き続ける距離を考えるべきであって、陸軍の行軍で進むような距離を考えるのは、適切でないともいえる。

また、台湾の海洋学院大学教授の謝銘仁博士は、『邪馬台国・中国人はこう読む』(立風書房刊)をあらわし、茂在寅男氏とは、別の観点から、一日あたりの行程が、それほど大きくはなかったであろうことをのべる。
邪馬台国へいたる旅程記事のうちの、「水行十日、陸行一月」という語句は、これまで、つぎの二つの読みかたの、いずれかに読まれてきた。
「水行十日して、しかるのち、さらに陸行一月。(水行十日と、陸行一月とは、andでつながるとみる)」
「水行十日、または、陸行一月。(水行十日、陸行一月とは、同じ旅程を、二とおりの形で表現したとみる。水行十日と陸行一月とは、orでつながると考える)」

謝銘仁博士は、このいずれの読みかたも、違っているであろうとする。
謝銘仁博士は、くわしい根拠をあげて、つぎのようにのべる。
「『水行二十日』『水行十日』『陸行一月』は、休日・節日や、いろいろな事情によって、ひまどって遅れたり、鬼神への配慮などから道を急ぐのを控えた日々をひっくるめた総日数に、修辞も加わって記されたものである。決して実際にかかった”所要日数”のことを意味しているのではない。」
「この日程記事は、先に水路を『十日』行ってから、引き続いて、陸路を『一月』行ったという意味ではない。地勢によって、沿海水行したり、山谷を乗り越えたり、川や沼地を渡ったり、陸路を行ったり、水行に陸行、陸行に水行をくり返し、さらに、天候や何かの事情により進めなかった日数や休息・祭日その他の日数も加算し、卜旬の風習も頭に入れて、大ざっぱながらも、整然とした『十日』『一月』で表記したのであろう。」

つまり、魏使の道程には、水行の部分、陸行の部分、さまざまな部分があり、その水行の部分を合計すれば、「水行十日」となり、陸行の部分を合計すれば、「陸行一月」となるという意味であるとする。「水行十日、陸行一月」は、かかった総日数であって、実際に旅行し、進みつづけた日数ではないとする。                    

 

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