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第326回 邪馬台国の会
纒向遺跡関連報道について
大国主の命・邇芸速日の命と銅鐸


 

1.纒向遺跡関連報道について

『朝日新聞』2014年2月7日(金)朝刊に下記の記事がある。
これは、報道に値する内容なのか。研究者には、いろいろな立場がありうるが。

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邪馬台国の所在地論争は、あくまで、『魏志倭人伝』を出発点とするものである。『魏志倭人伝』に則して議論されなければならない。
『魏志倭人伝』には、卑弥呼の「居処」について、つぎのように述べられている。
「宮室・楼観[ろうかん](たかどの)、城柵をおごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち守備している。」

また、『魏志楼人伝』では、倭人の武器について、つぎのように記されている。
「兵(器)には、矛を用いる。」
「竹の箭(や)は、鉄の鏃、あるいは、骨の鏃(のもの)である。」
たとえば、北九州の吉野ヶ里遺跡では、防衛用の城柵も、楼観のあとらしいものも発見されている。
吉野ヶ里遺跡のばあい外濠は、築造当時、幅10メートル、深さ4.5メートルていどであったであろうといわれている。濠の断面はV字形をしている。濠は、軍事的性格をもっていたとみられる。また、洪水を防いだり、灌漑の便をはかる治水の目的もあわせもっていたであろうといわれている。
深さ4メートルの濠の外に、掘り土を盛りあげ、材木で柵をその上に設置すると、落差は、6メートル以上となる。
この柵が、『魏志倭人伝』の記事の、「城柵」にあたるかといわれている。
吉野ヶ里遺跡の発掘当時、考古学者の佐原真は、およそ、つぎのような意見をのべている。
「もともと中国の『城』は、日本語の城、英語のカースル(castle)ではなく、日本語の囲い、英語のウォール(wall)である。しかも、古くは、それを土をつんで造った。だからこそ『土で成る』という字になっているとか。
『城(きず)く』という動詞もある。濠を掘る。弥生の村では、その土を、濠の内側ではなく、外側に掘りあげて土の囲いを盛りあげた。『土塁』ともよんでいる。これは中国流では、『城』でよい。」(『月刊Asahi』 1989年6月号)

吉野ヶ里遺跡の実物を見(あるいは、写真を見)、佐原真の説明をきけば、『魏志倭人伝』のいう「城柵」とは、なるほどそういうものであったのかと、なっとくできるように思える。「柵」なのであるから、英語のカースルではないのであろう。
『魏志倭人伝』に記されている「楼観」のあとか、といわれている物見やぐらを思わせる建物跡がある。これは、門舎であるとする見解もある。

この建物跡について、大阪外国語大学の森博達(もりひろみち)助教授は、つぎのようにのべている。
「『楼観』は、本来宮門の左右に築かれる一対の高台(たかどの)を指す。『後漢書』の〈単超伝〉や〈梁冀(りょうき)伝〉の用例から壮麗な高台であることがわかる。『楼櫓』のような単なる物見やぐらではない。吉野ヶ里から高さ10メートル以上と思われる『物見やぐら』の遺構が発掘された。内濠の東側では出入口を挟んで左右に築かれている。楼櫓ではなく楼観に近いものと考えるべきである。」『プレジデント』1989年7月号)

『魏志倭人伝』の記述は、宮室が内部にあり、環濠と土塁と、土塁の上の柵とがあり、物見やぐら風のたかどのなどがあって、そこで兵士が監視し、守衛しているというイメージの、吉野ヶ里の状況などと、よく重なりあっているように思える。
また、吉野ヶ里遺跡からは『魏志倭人伝』に記されている「鉄の鏃」や、絹や、鏡(後漢式鏡)や、勾玉などが出土している。

纒向の地の柵は、防衛用のものではない。区画用のものである(この点も、桜井市の教育委員会の橋本輝彦氏に、お電話してたしかめた。)

今回の新聞記事も『魏志倭人伝』の記事内容と結びつくものは、何もない。

その他まだいろいろ説明はありましたが、省略します。


2.大国主の命・邇芸速日の命と銅鐸

■はじめに
井上光貞著『日本の歴史1神話から歴史へ』(中央公論社、1965年)で、
「国譲りの物語の一つの問題点は、天照大御神が天忍穂耳(あめのおしほみみ)命を下界に下そうとしたとき、下界は『いたくさやぎてありけり』(ひじょうにさわがしい状態であった)と述べておきながら、将軍たちの平定は、下界一般ではなくて、出雲国という特定の地方であったことである。
このことは、国譲り物語のあとにくる『天孫降臨』の物語で、いよいよ天忍穂耳命の子を地上に降すときその地点が、出雲でなく日向(ひむか)であったとされていることとあいまって、神代史の構想それ自身として、大きな矛循をおかしているといえる。」と書いてある。

これは矛盾であろうか?
高天原は北九州地方と考えられる。そうした時、大国主がおさめていた国は、出雲から奈良県・和歌山県に至る広い範囲であった。「近畿には饒速日(にぎはやひ)命が降った。出雲方面には天穂日命が降った。」とされている。国譲りからすぐに南九州に天孫降臨したわけではなく、高天原からこれらの地域に饒速日命や天穂日命が降っている。そしてこの地域は銅鐸を祭器としてまつったところである。
今回はこのことについて話したい。

■銅鐸の年代
考古学では、土器による編年が進んでいる。そこで考古学上の遺物は一緒に出土した土器によって、年代を決めていく。しかし銅鐸は土器と一緒に出てこない。そこで、銅鐸のはじまりの時期についての諸説(寺井秀七郎氏作成の原図をもとに作成)からも分かるように、小林幸雄氏(弥生時代前期)や佐原眞氏は古くしているが、藤瀬禎博氏、杉原壮介氏(西暦100頃)はでは新しくしており、そこには300年の隔たりがある。
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・銅鐸について、森浩一・石野博信共著『銅鐸』学生社刊に下記の対談がある。
「石野: 年代で言われているのは、小林(行雄)さん以来、銅鐸に付けられている流水文様を基準にして、あの文様が近畿の第Ⅱ様式(紀元前100年前後)の土器につけられているものと、付け方のルールが同じだから、それにあてはめて年代を考えると、流水文銅鐸というのが第Ⅱ様式中期の初めである(上図)。したがって、それより古いタイプの銅鐸があるから、前期から始まるんだという考え方です。

森: ぼくは、九州のほうがいまのところははるかに年代の基点になると思う。
たしかに近畿の場合、流水文との類似性とか、木の葉文と言いましたか、葉を四枚つないだ文様も一部銅鐸に出てくるからという議論が、直良(ながら)[信夫]さんなどは銅鐸研究のなかで言われていたけれども、唐古・鍵遺跡の文様を研究した藤田(三郎)さんが、銅鐸に付いているような流水文は、古いほうの流水文じゃなくて、第Ⅳ様式(紀元後1世紀ごろ)にもあると言っている。だから、流水文があるからといって古いという証拠にはならない。そうすると、近畿の年代の出し方が、ぼくはいまのところ基盤が弱いような気がする。

石野: 資料的な強さ、根拠の強さという点では、圧倒的に九州との間に差がありますね。

森: 銅鐸についていろいろな人がものを書くし、直接銅鐸を研究していない人でも、博物館の解説などの銅鐸の概説を読んで、中には、弥生前期・中期・後期にまたがって製作されたというような、ハッとするような書き方がされていることもあるけれども、少なくとも前期というのは、いまのところ、危ないなという気がします。やはり中期、それも前半がどの程度いけるのかなと思うんです。

石野: 近畿の場合、流水文から第Ⅱ様式のものと同じだということについて疑問を提出した、藤田さんの研究というのはかなり可能性が高いと思うんです。唐古・鍵遺跡の土器の編年が報告書の段階でなされて、それが一つの基準になっているんですけれども、その基準が危ないんじゃないかということなんです。
流水文があるから第Ⅱ様式だと言っていたら、明らかに同じ手のものが第Ⅲ様式にも第Ⅳ様式にもあるということが、遺構の土器の一括資料の中で言えるようになってきたわけです。
あれは唐古の報告書そのものを見直してもその可能性は高いんです。ですから、逆なんですね。流水文があるから第Ⅱ様式だというふうに型式学的に言われてきたが、現実に九州から出てくる材料がふえてくると、そうとは言えない。同じ手のものが中期の後半、第Ⅳ様式まであるんだということがわかってきましたから、基準としては修正すべきものだろうと思います。」

・このように、銅鐸の年代を決めるのに銅鐸の文様などを参考にしているが、新しいものにも同じような文様がある。従って初めの方はそんなに古くさかのぼれないのではないか。


■銅鐸の編年と形式
佐原眞氏は銅鐸の研究で大きな足跡を残したが、それは銅鐸の形式を古い順に並べる作業であり、絶対年代を示したものには疑問を持つ。
銅鐸の形式は菱環鈕式、外縁付鈕式、扁平鈕式、突線鈕Ⅲ式、突線鈕Ⅳ式で、写真を下図に示し、更に銅鐸の大きさの変遷も下図に示す。
近畿式銅鐸と三遠式銅鐸とは、最末期の銅鐸であり、時代が新しくなるにつれて大型化している。最大のものは、134.7cmの近畿式銅鐸である。最末期銅鐸のおよんだ地域は、のちに饒速日の尊系の人々が国造になった地域と重なりあう。

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佐原眞氏の銅鐸編年から、各銅鐸の鈕の形を下図に示す。

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■銅鐸はどのくらいの原料を必要とするものか、近畿式銅鐸の重量だけで、三角縁神獣鏡の総数の重量を超える。
・滋賀県野洲市小篠原大岩山出土の近畿式銅鐸
高さ 134.7cm
重さ 45.7Kg

・大阪府羽曳野市西裏西裏小学校庭西出土の近畿式銅鐸
高さ 89.6cm
重さ 13.5Kg

重さは高さの大略3乗に比例するとしている。69個の近畿式銅鐸の総重量はおおよそ669Kgとなる。

・福島県会津若松市の会津山古墳出土の三角縁神獣鏡
面径 21.4cm
重さ 917.5g
(三角縁神獣鏡の面径平均22.2cm面径により調整)

三角縁神獣鏡の総出土数をおよそ500面とみて、その総重量は512Kg
近畿式銅鐸だけで、その銅原料の総量は三角縁神獣鏡の銅原料の総重量を上まわる。

 

■最末期の銅鐸は北九州の青銅器と同じ材料
つぎの銅鐸の3グループは、銅のなかに含まれる鉛同位体比が異なる
1)菱環鈕式銅鐸→初期銅鐸
2)外縁付鈕式銅鐸・扁平鈕式銅鐸→最盛期銅鐸
3)近畿式銅鐸・三遠式銅鐸→最末期銅鐸

原田大六氏は『実在した神話』(学生社、1966年刊)で次のように言っている。「わたしは、この四種の青銅器は本質的には同じ意味のものであると考えた。『四種の青銅製祭器』は同類のものであり、偶有的に異なった形態を呈していたに過ぎなかったのである。」と言っている。下図に四種の青銅器を示す。左より、広形銅矛・広形銅戈・平形銅剣・銅鐸(最末期の近畿式・三遠式)

これらの4種の青銅器は同一の鉛の同位体比となっている。原田大六氏は鉛同位体比の分析技術を知らない時代にこのような見解を出したのは鋭いものがある。 銅矛などと銅鐸とは違った形であるが、同じ文化圏であった可能性があり、それは倭人の文化圏と考えられる。そして銅鐸に書かれた絵からも倭人であることが推定できる。326-04

■各銅鐸の出土状況
島根県古代文化センター調査研究報告書12の青銅器埋納調査報告書Ⅰ(銅鐸編)に銅鐸の出土地名表があり、下記に示す。

これはだいたい発掘された銅鐸を網羅したと考えられるが、これによると、九州から出てくるものがない。

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・外縁付鈕式銅鐸・扁平鈕式銅鐸
外縁付鈕式1式2式銅鐸の出土状況のグラフは下記である。島根県、兵庫県が多い。

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同じ鉛の同位体比の扁平鈕式銅鐸の出土状況のグラフは下記である。兵庫県、徳島県、大阪府が増えてきている。

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『先代旧事本紀』に「出雲の国造:瑞籬(みずがき)の朝(みかど)[第10代崇神天皇]御世(みよ)に、天の穂日の命の十一世の孫・宇迦都久怒(うかつくぬ)の命を国造(くにのみやつこ)に定賜ふ。」とある。つまり島根県の方に天の穂日の命が降っている。

・近畿式銅鐸・三遠式銅鐸
愛知県の尾張・参河と、静岡県の遠江とは、順に隣国である。
また、参河(三河)と遠江とは、ともに物部系氏族であり、尾張は、天の火明の命系である。三遠式銅鐸は全出土数31個のうち16個は遠江の国からの出土。三遠式銅鐸は物部系氏族と強く関係しているようにみえる。326-07

1)最末期銅鐸の銅原料は、北九州系のものである。北九州で、多く出土する小形仿製鏡第Ⅱ型と鉛の同位体比が等しい。ここから最末期銅鐸の年代をあるていど推定できる。小形仿製鏡第Ⅱ型は箱式石棺の墳墓と同時に出土する。箱式石棺は邪馬台国時代といえるので、北九州から近畿へ移るタイムラグを考えると、最末期銅鐸の時代は邪馬台国時代の少し後となる。
2)滋賀県には邇芸速日の命とともに天下った天の御陰(みかげ)の命[天津彦根(あまつひこね)の命の児]系勢力が、早く進出していた。
3)滋賀県野洲市の小篠原(こしのはら)からは、近畿式14、三遠式4、突線鈕1式4、不明1などの大量の銅鐸が出土している。また、この地からは、三角縁神獣鏡も出土している。この地では、同一首長系譜の墓が、世代を追って出現しているようにみえる。銅鐸を保持した氏族が、やがて大和朝廷のなかにくみいれられ、ひきつづいて三角縁神獣鏡を保持したようにもみえる。ここから最末期の銅鐸と三角縁神獣鏡とのあいだには、それほど年代差がないようにみえる。
4)愛知県の西部の尾張については、『古事記』『日本書紀』によれば、天の火明の命は、尾張氏の祖であった。愛知県の東部の三河(参河)については、『先代旧事本紀』に「志賀(しが)の高穴穂(たかあなほ)の朝(みかど)[第13代成務天皇]の御世に物部の連の祖、出雲の色(しこ)の大臣(おほおみ)の五世の孫・知波夜(ちはや)の命を以て国造に定賜ふ」とある。

下図のように近畿式銅鐸・三遠式銅鐸の出土数は滋賀県・静岡県が多くなっている。

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・外縁付鈕式・扁平鈕式銅鐸と近畿式・三遠式銅鐸の変化点
また、下図のように、外縁付鈕式1式2式と扁平鈕式銅鐸の出土数は島根県が多くなっている。

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全国の出土数で、島根県と静岡県では、島根県からの出土数が0になる時期(扁平鈕式から近畿式への移行期)と、静岡県からの出土率が上向きになる時期が一致している。つまり鉛同位体比が変わる銅鐸グループの変化点である。

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下記表からも裏付けられる。

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滋賀県野洲・大岩山遺跡でも、同じようにいえる。
大量銅鐸を出土した特定の遺跡をみると、初期・最盛期銅鐸(外縁付鈕1式・2式、扁平鈕式銅鐸)と終末期銅鐸(近畿式・三遠式銅鐸)とは、共伴することがないようにみえる。[下左図]

三河の国と遠江の国の合計
「三河の国造(くにのみやつこ)」は物部の連(むらじ)の祖(みおや)、出雲の色の大臣(しこのおほおみ)の五世も孫・知波夜の命(ちはやのみこと)。
「遠江の国造」は物部の連の祖、伊香色色雄(いかがしこを)の命の児(みこ)・印岐美(みこいに)の命。[下右図]
下記『先代旧事本紀』参照。

『先代旧事本紀』
1)珠流河(するが)の国造:志賀の高穴穂の朝(いがのたかあなほのみかど)[第13代成務天皇]の御世に物部の連の祖、大新川(おほにひかわ)の命の児、片堅石(かたかたし)の命を以て、国造に定賜ふ。
2)伊豆の国造:神功皇后の御代に物部の連の祖、天の蕤桙(あまのぬぼこ)の命の八世の孫・若建(わかたけ)の命を以て国造に定賜ふ。
3)遠淡海の国造:志賀の高穴穂の朝(たかあなほのみかど)[第13代成務天皇]の御世に物部の連の祖、伊香色雄(いかがしこを)の命の児、印岐美(いきみ)の命を以て、国造に定賜ふ。

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■銅鐸の分布
(A)初期・最盛期銅鐸の分布
1)縦線の島根・兵庫・大阪は初期・最盛期銅鐸(外縁付鈕1式2式・扁平鈕式銅鐸)の、もっとも出土数の多い上位3県。
2)○(マル)のなかの数字は、初期・最盛期銅鐸の出土数。これが大国主の命の最大限の勢力範囲と思われる。
3)初期銅鐸には、この図に示したもの以外に、菱環鈕式銅鐸があるが、それを加えても、全体的傾向はさして変わらない。
4)菱環鈕式銅鐸の出土は、島根1、兵庫2(うち、淡路1)、福井1、三重1である。

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(B)最末期銅鐸(近畿式銅鐸・三遠式銅鐸)の分布
1)縦線の滋賀・愛知・静岡は、最末期銅鐸のもっとも出土数の多い上位3県
2)○(マル)のなかの数字は最末期銅鐸の出土数。
3)時代的にあとの最末期銅鐸(近畿式・三遠式銅鐸)が、島根県方面に出土していないのはなぜか。天の穂日の命勢力をさけるため?
4)上図(A)と下図(B)とは、大略重なっている。重ならないのは西で、島根・鳥取・広島・香川の4県であり、東で、長野県の1県である。
つまり最末期銅鐸は非常に広い範囲にわたって、出土しているが、天の穂日の命が天降った出雲地方へは行っていないのではないか。

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・菱環鈕式銅鐸を含めすべての銅鐸について示す。
初期・最盛期銅鐸と終末期銅鐸との分布
傾向として、左(西)に行くほど、「初期・最盛期銅鐸」の率が大きくなる。右(東)に行くほど、「終末期銅鐸」の率が大きくなる。そして上(北)に行くほど、「初期・最盛期銅鐸」の率が大きくなる。下(南)に行くほど「終末期銅鐸」の率が大きくなる。
縦線の県は、格子線の県をふくめ隣あわせで、地域的に連続的である。横線の県は格子線の県をふくめ隣あわせで、連続的である。
縦線・横線の重なりあう部分の面積が、かなり大きい。

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・三角縁神獣鏡の分布
三角縁神獣鏡の分布は更に東へ広がって行き、その北限は福島となる。
初期・最盛期銅鐸と終末期銅鐸、更に三角縁神獣鏡とその分布をみていくと、ストリーが見えてくる。

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「考古栄えて記紀滅ぶ」と言われている。発掘の考古学だけでは歴史にストリーがない。このように、『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』などいかすとストーリがある説明ができる。

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