TOP>活動記録>講演会>第323回 一覧 次回 前回 戻る  


第323回 邪馬台国の会
饒速日の命の東遷伝承
天孫降臨伝承と高千穂論争


 

1.饒速日の命の東遷伝承

■饒速日の命は実在したか
平安時代の系譜などの文献
・『新撰姓氏録』
『新撰姓氏録』は平安前期の系譜書。30巻、目録1巻(散逸)。嵯峨天皇の勅をうけて、万多(まんた)親王らが撰進。弘仁6年(815)成立。神武天皇の時代から弘仁期までの京畿の姓氏1182氏を皇別・神別・諸蕃・未定雑姓に分類、各系譜を記したもの。現存本は抄録本とされる。

・『先代旧事本紀』
『先代旧事本紀』は、「天の火明の命(ほあかりのみこと)」を。「天照国照彦(あまてるくにてるひこ)天の火明櫛玉饒速日の命(あまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」と記し、尾張氏と物部氏の祖とする。天の火明の命を、饒速日の命と同神とする『先代旧事本紀』の説を、本居宣長は『古事記伝』で偽説とし、田中卓氏は、同神とみとめてもよいとする(『日本国家の成立と諸氏族』(田中卓著作集2)

饒速日の命の子孫が多い
『新撰姓氏録』は「二田物部(ふたたもののべ)。神饒速日(かみにぎはやひ)の命、天降りまししときのときの従人(ともびと)、二田天物部(ふたたのあめのもののべ)の後(すえ)なり。」のような形で、神饒速日の命の天降り伝承をのせている。

・『新撰姓氏録』にのせられた1182氏の分類
  皇別:335氏
  神別・天神:265氏
  神別・天孫:109氏
  神別・地祗:30氏
  緒蕃:326氏
  未定雑姓:117氏
  計:1182氏

分類基準 氏族数 祖先となる天皇や神
皇別 335 28.2% 神武天皇
神別 天神 265 404氏
(34.2%)
[265氏
(22.4%)
109氏
(9.2%)
30氏(2.5%)]
饒速日の命、神魂(かみむすび)の命、高魂(たかむすび)の命、津速魂(つはやむすび)の命[藤原氏の祖神の天(あま)の児屋(こやね)の命は、津速魂の命の二世の孫]
天孫 109 天の火明(ほあかり)の命、天の穂日(ほひ)の命、天津彦根(あまつひこね)の命[いずれも天照大御神の子孫]
地祗 30 大国主の命
緒蕃 326 27.6%  
未定雑姓 117 9.9%  
1182 100%  




ここで、神別(しんべつ)に注目する。
 ①河内国神別
 ②摂津国神別
 ③和泉国神別
 ④山城国神別
 ⑤大和国神別

『新撰姓氏録』の「神別」氏族の分類、 河内・摂津・和泉・山城・大和の土着の氏族について、

饒速日の命の子孫が一番多く62氏族。次が天の火明の命で、32氏族である。もし『先代旧事本紀』の記述のように、饒速日の命と天の火明の命が同一人物であったなら、圧倒的に多くなる。
『新撰姓氏録』が書かれた時代は藤原氏が権力を持っていた時代である。しかし藤原氏の祖神の天(あめ)の児屋(こやね)の命の子孫は饒速日の命の子孫より少ない。
これは、何か歴史的事実を反映していたのではないか。

323-01

 

『新撰姓氏録』の「神別」氏族の分類(左京神別・右京神別)
これは都に本籍をおく氏族である。

これでも、饒速日の命の子孫が一番多く44氏族。次が天の火明の命で、21氏族である。

このように、饒速日の命が多いことは、簡単に饒速日の命が架空の人と言えないのではないか。

323-02

『新撰姓氏録』の「神別」氏族の分類(総計)
前の表の二つを合算すると下記の表となる。

323-03

 

近畿諸氏族の祖先神と後裔氏族数
前の表で、饒速日の命と天の火明の命が同一として、書いたグラフである。
このように、饒速日の命と天の火明の命が同一とすると、圧倒的に多くなる。

232-04

 

高天原の神の系図
古代では、兄弟姉妹などは同じような名前が多い。饒速日(にぎはやひ)の命と邇邇芸(ににぎ)の命は発音が近いので兄弟の可能性はある。
『記紀』で「出雲に天の穂日(ほひ)の命が天下り、近畿に饒速日の命に天下る。」となっている。

天の穂日の命は天照大御神の子の時代、饒速日の命は天照大御神の孫の時代となる。
◎を付けた神は『古事記』の天の岩屋戸の段の前後に名の見える神。

323-05

 

 

下記は『先代旧事本紀』から饒速日の命と一緒に天下った神々の表である。四角で囲んだのは、前の系図に表記している神々で、系譜が分かっている神々である。

例として、「天背男命(あまのせおのみこと)」は前の系図の「神産巣日(かむすひ)の命」の孫としてある。 323-06

 

天照大御神の子と孫の系図について、『古事記』と『日本書紀』を比較して下記に示す。

天津彦根は国造(くにのみやつこ)クラスである。両方とも凡河内(おおしこうち)について、『古事記』は国造として、『日本書紀』では直(あたい)としている。これは両方とも、のちの郡長クラスを示すことになり、つじつまが合っている。

「天の火明の命」については、『古事記』は、邇邇芸(ににぎ)の命の兄であるとしている。『日本書紀』は、瓊瓊杵(ににぎ)の尊の子であるとする伝承と、瓊瓊杵の尊の兄であるとする異伝との両方を伝えている。

一度、南九州に天下った瓊瓊杵の尊の子が、饒速日の命といっしょに畿内に天下るのは、やや不自然である。
その意味では、瓊瓊杵の尊の兄弟とみたほうが無理がない。

323-07

 

天の背男(せお)の命は『古事記』『日本書紀』に名がみえず。『新撰姓氏録』と『先代旧事本紀』とに名のみえる神である。

『先代旧事本紀』のばあい、饒速日の命といっしょに天降った人のなかに、京都府内の地域の現地支配者の祖先であるとされている人が何人かみえる。
たとえば、つぎのようなものである。
「天の背男(せお)の命 山背の久我(くが)の直(あたい)たちの祖(おや)」
「天背男命(あまのせおのみこと)」「阿麻乃西乎乃命(あまのせおのみこと)」両様の表記が『新撰姓氏録』にみえる。『新撰姓氏録』では、「神魂(かみむすび)の命の五世の孫、阿麻乃西乎乃命」などと記されている。
  「久我」は、のちの山城の国の愛宕(あたご)郡久我村(京都市伏見区久我一帯)である。


■九州に残った邪馬台国の勢力はどうなったのか
『先代旧事本紀』の「国造(くにのみやつこ)本紀」において、九州の国造に「天孫」系の人は、ほとんどいない。わずかに「大隅国造」「薩摩国造」の「日佐(おさ)[長(おさ)か]」である。この国造となった「隼人」を火(ほ)の闌降(すそり)の命の後裔として、「天孫」とみなしうるか?
他に、豊の国造の祖が、天の穂日の命(出雲系)で、「天孫」となる。(宗像の君、宗形朝臣は大国主の命系で「地祗」)

・筑紫の国の場合について考えてみよう。
筑紫の国国造の後裔氏族と考えられる「筑紫の君」[君(きみ)は姓(かばね)]は第7代孝元天皇の皇子大彦の命を祖とする。
神武天皇よりもまえ以来の有力な天孫系氏族(天照大神の子孫とされる氏族が、この地とされる氏族が、この地に盤居(ばんきょ)していたようにはみえない)

・筑紫の君
筑後平野を本拠地とした豪族。筑紫国造の後裔氏族と考えられる。筑紫国造は孝元天皇の皇子大彦命を祖とし、継体朝に反乱して敗れた筑紫君磐井(いわい)は『日本書紀』に筑紫国造とみえるが、筑紫君氏の国造就任は磐井の乱後のことであろう。そして乱後も、一族は七世紀後半に至るまで在地の代表的首長として存続したらしく、その墳墓として八女市の八女古墳郡が比定されている。しかし氏人の名は上記磐井のほかに、磐井の子の葛子、斉明朝の百済救援軍に従い、唐軍の捕虜となって天智朝に帰国した筑紫君薩野馬(さちやま)が知られるだけである。(佐伯有清編『日本古代氏族事典』[雄山閣刊])

・筑紫の連(むらじ)
「筑紫連。饒速日の命の男(こ)、味真治(うましまぢ)の命の後(すえ)なり。(『新撰姓氏録』「山城国神別」
筑紫連氏の一族の人名は、他の史料にみえない。栗田寛は『旧事紀の天神本紀に、饒速日命五部の内に、筑紫弦田(つるた)物部等天津赤星(あまつあかほし)、また二十五物部の内に、筑紫聞(きく)物部贄田(にえた)物部あり、之をもて思ふに、筑紫連は、この筑紫の物部を掌る長なりと見ゆ』と述べているが、栗田の指摘のように、筑紫連氏は、『旧事紀』天神本紀の『副五部人為従天降供奉』条にみえる筑紫弦田物部、あるいは『天物部等二十五部人。同帯兵杖天降供奉』条にみえる筑紫聞物部・筑紫贄田物部の伴造氏族であったかもしれない。」

味真治命『古事記』は宇摩志麻遅命に作り、神武天皇段に「故、邇芸速日命、娶登美毘古之妹、登美夜毘売生子、宇摩志麻遅命。<此者物部連、穂積臣、婇臣(うねのおみ)祖也。>」とみえる。」(佐伯有清編『新撰姓氏録の研究』[考証編第三]吉川弘文館 1982年刊)

・筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)
6世紀の北九州の地方豪族。磐井の子。磐井は、継体天皇が近江臣毛野(おうみのおみけの)に新羅遠征を命じた折に、新羅と結んで毛野の渡海をさえぎり反乱を起こした。継体22年(528)11月、継体が物部麁鹿火(あらかひ)らを送って磐井を討つと、その子葛子はその年の12月、父の罪に連坐することを恐れて糟屋(かすや)屯倉(みやけ)[福岡県粕屋郡・福岡市東区の付近]を献上して死罪をあがないたいと乞うて許されたという。 葛子の子孫筑紫君はかなりのちまで活躍している。(坂本太郎・平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館 1990年刊)

・大彦命の子孫の筑紫の君磐井は継体朝に反乱を起こし滅ぼされた。しかし、筑紫君葛子は土地を献上して、しばらくのちまで栄えたとある。

このように、九州方面で天照大御神や、高御産巣日や天の忍穂耳の命の子孫が豪族として栄えたように見えない。

邪馬台国の東遷現象があったとして、九州の邪馬台国の全体が動いたのか、それとも本体部分の一部が残ったのかと考えると。
本体部分の一部が残ったと見えるが、その後九州で豪族として栄えた形跡がないことから、近畿に移動したものが、その後勢力が大きくなり九州方面に残った子孫を吸収したことになったのではないか。

古代においては。都[宮処(みやこ)]が、しばしば移っている。
古代は都を移動したが、そうすると九州方面のかなりの勢力が邇芸速日命として畿内に移った。それは邪馬台国の本体が移ったようになったのではないか。

更に、神武天皇が南九州から畿内に移った。そして先に移って来ていた邇芸速日命の勢力と連合政権を造った。そのため畿内での邇芸速日命の子孫の勢力が栄えたのではないか。

■饒速日の命の子孫
饒速日の命の東遷も邇邇芸命の南遷も、基本的に、同一主体、同一勢力の東遷、南遷として描かれている。『日本書紀』神武天皇紀に、長髄彦が、饒速日の命が天神の子孫である証拠を見せる話がある。

この話から、饒速日の命が物部氏の祖先であることが書かれている。

・『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』の系図
更に、天照大御神の子と孫の系図について尾張氏を示すため、『古事記』と『日本書紀』(本文系図と第六書による系図)を下記に示す。

尾張氏の祖先が「天の火明の命」となるように書かれている。また、尾張氏は三河・遠江から多く出土する三遠式銅鐸と関係していると考えられる。
「天の火明の命」の子孫が他でも国造となっている例が多い。更に、尾張氏は東方に伸びて行っている。
323-08

 

『先代旧事本紀』の系図を下記に示す。尾張(尾治)氏の系図が書かれており、「天香語山命(あまのかごやま)」の子孫とされている。

323-09

 

このように興味深い尾張氏については別途講演する予定。

 

2.瓊瓊杵(ににぎ)の尊の南遷伝承

■高千穂について
現在は邪馬台国論争が盛んだが、戦前は邪馬台国論争より天孫降臨の高千穂論争が盛んだった。高千穂の峰はどこかを論争していた。

南九州には高千穂の地名が2か所ある。瓊瓊杵(ににぎ)の尊は北の高千穂(宮崎県)[日向(ひむか)・臼杵(うすき)郡]なのか、南の高千穂(鹿児島県)[日向・贈於(そお)郡{襲(そ)or曾(そ)}]なのか?


323-10



諸文献にみえる高千穂の峰

323-11

 


宮崎の高千穂は記紀の神話の話を何でもここに持ってきたように見える。だから天岩屋戸も高千穂もある。

本居宣長は瓊瓊杵の尊は北の高千穂に天降り、その後に南の高千穂に天降ったとしている。
しかし、本居宣長は何でも記紀のことを信じている立場なので、本居宣長の主張はそのまま受け入れられない。総合して考えれば、北九州から出発して、霧山の方へ行ったと考える方がよいのではないか。

■神代3代
神代3代(『古事記』表記)は下記のように西から東に移っている。
邇邇芸の命[可愛(えの)山稜」
火遠理の命[高屋(たかや)山上稜]
鵜葦草葦不合の命[吾平(あひら)山上稜]

232-12

323-13

 

■宮崎県串間市出土の璧
南九州から何も出てこないというが、宮崎県串間市今町王の山から璧が出土ている。これはわが国最大のものである。
このような璧は北九州の峰、須玖岡本、三雲などの遺跡から出土している。更に、南九州の王の山遺跡でも出土したことは注目に値する。

・下記の『季刊邪馬台国』の記事がある
この四か所から出土した璧のうち、宮崎県串間市今町王の山から出土した璧は、わが国最大のもので、直径は、じつに33.3センチもあり、厚さ6ミリ、孔径6.5センチ、重さ1.6キロで、完全な形のものである。硬玉製で、一部褐色の部分もあるが、おおむねは、暗緑色をしている。この璧は、現在、国宝となっている。
玉璧を納めた桐箱の、明治10年(1877)の紀年のある箱書きには、次のようにある。
「文政元年(1818)の2月、日向の国那珂郡今町村農佐吉の所有地字王之山で掘り出した石棺の中から獲たところの古玉、鉄器三十余品の一つである。思うに日向には上古の遺跡が多い。いわゆる王之山も、また、必ず尋常の古塚ではない。」(石川恒太郎編『郷土史事典・宮崎県』昌平社。那珂郡今町村は、現在の串間市今町である)
鉄器三十余品が、いっしょに出ていることも注目される。璧そのものに、鉄のさびが付着していて、鉄器をともなっていたことと、箱書きの記述が根拠のあることを裏づけている。
この璧は、その後、幕末の探検家松浦武四郎のものとなり、さらに、加賀前田家を経て、現在では、東京の前田育徳会の所蔵となっている。
これまでに、璧のでた場所は、いずれも、九州にある。その四つの地点を、地図上にプロットすれば、下図のようになる。
  考古学者、高倉洋彰氏は、王の山の玉璧のでたのは、「箱式石棺墓」とされ、前漢前~中期ごろにつくられた可能性をもつとされる。
高倉氏は、およそ、つぎのように述べる。
「文様は両面に彫りこまれ、それぞれ絡縄文帯で、三区に分けられている。内区には、波状のうねるように表わされた鳥文[夔鳳(きほう)文]三体、外区には双身獣面の夔竜(きりゅう)文五体が彫られ、それらに挟まれた中区には、穀粒文が整然と配されている。いわゆる穀璧である。この穀粒文よりもあとに、蒲文がでてくる。
このような文様の特徴からみて、串間からでた璧は、前漢前~中期ごろにつくられた可能性をもつ。ただ、日本出土のガラス製の璧が、いずれも弥生時代中期後半ごろ(前漢後期にほぼ併行)に副葬され、いずれも穀粒文であることを考えれば、串間からでてきた璧は、もうすこし時期を下げてよいのかもしれない。
(わが国での)璧出土遺跡の位置づけからみて、璧が『王』クラスの特定の人物にのみ所有されていたであろうことが理解される。したがって、璧の出土は、その墓の主の身分・地位を明らかにする。」(「弥生時代の璧」『季刊邪馬台国』30号)

この璧が箱式石棺から出土したことは甕棺のあとの邪馬台国時代となると考えられ、この璧が夔鳳文であることは夔鳳鏡が西晋時代の鏡であることから、邪馬台国時代にからむ可能性もある。

323-14

  TOP>活動記録>講演会>第323回 一覧 上へ 次回 前回 戻る