TOP>活動記録>講演会>第322回 一覧 次回 前回 戻る  


第322回 邪馬台国の会
今年でた論者についての論評
饒速日の命の東遷伝承


 

1.今年でた論者についての論評

今年でた下記の三つの本について論評を加える。
(1)出雲の大和(村井康彦)[2013年1月刊]
(2)出雲王国の正体(武光誠)[2013年3月刊]
(3)敗者の古代史(森浩一)

322-01

(1)出雲の大和(村井康彦)[2013年1月刊]

大和の中心にある三輪山になぜ出雲の神様が祭られているのか? それは出雲勢力が大和に早くから進出し、邪馬台国を創ったのも出雲の人々だったからではないか? ゆかりの地を歩きながら、記紀・出雲国風土記・魏志倭人伝等を読み解き、古代世界における出雲の存在と役割にせまる。古代史理解に新たな観点を打ちだす一冊。

本文からの引用
・・・・これを整理すれば次のようになる。
  不弥国→(南、水行20日)→投馬国→(南、水行10日、陸行1月)→邪馬台国
  先に述べたことからも不弥国が九州北東部にあったことはまず間違いないから、これを起点とすることの根拠と意味は十分にある。その不弥国から邪馬台国へ行くのに要する日数は、合わせて「水行1か月十陸行1か月」というものであるが、この記載通りとすれば、さしずめ豊後水道を南下し、九州の南方遥か彼方に邪馬台国はあったことになろう。記載のどこかに誤りがあるとしか思えないが、あるとすれば二度出てくる「南」という方角指示の個所にちがいない。ことの性質上、これが北でも西でもありえないから、残るのは東であり、つまり「南」を「東」に改めるべきであろう。それによって不弥国から東へ水行20日で投馬国に至り、そこから水行10日、(ここで陸へ上がり)陸行1か月を要して邪馬台国に至る、ということになる。

村井氏の考え
しかし、事はそう簡単ではない。場所は同じ大和でも、邪馬台国と大和朝廷とは繋がらないというケースもありうるのではないか。これを邪馬台国・大和朝廷非連続説と呼ぶなら、私はこの立場をとっている。
そう考えるに至った根拠はただ一つ、邪馬台国や卑弥呼の名が『古事記』や『日本書紀』に一度として出てこないことにある。三世紀前半、使者を帯方郡、さらには洛陽にまで派遣して魏王から「親魏倭王」の称号を受け、銅鏡百枚ほか数々の品物を下賜された倭の女王が大和朝廷の祖先であれば、その人物を皇統譜に載せてしかるべきであるにもかかわらず、卑弥呼のヒの字も出てこない。卑弥呼は日本の神話歴史のなかでは完全に無視されているのである。
だが、そうだとしても、卑弥呼の名は『日本書紀』に書き留められることはついになかった。ひとえにそれは卑弥呼が大和朝廷の祖先ではない、無縁の存在であると思われていたからであり、それ以外の理由は考えられない。卑弥呼は大和朝廷の皇統譜に載せられるべき人物ではなかったのである。
卑弥呼の存在がかくの如くであったとすれば、同じく『日本書紀』に載せられることのなかった邪馬台国も、おのずから大和朝廷の前身ではなかったということになろう。私が邪馬台国・大和朝廷非連続説をとるゆえんである。

魏の使者は派遣されなかった。
  問題の個所はこの部分である。
塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を遣わし(-だれが、どこへ?)、因つて詔書・黄幢を齎(もたらし)(-どこから?)、難升米(-どこにいた?)に拝仮せいしめ、檄をつくりて(-どこで?)これを告喩す。
①卑弥呼の使者が危急を告げるためにやってきた時、当然、帯方郡(の太守のもと)には倭に与えるべき親王の詔書・黄幢はなかったっだから太守が張政らを(倭国ではなく)魏の都・洛陽に派遣し、「囚つて」(それで)魏王から受け取った詔書・黄幢を張政らは帯方郡へ持ち帰つた(「齎した」)のである。
②張政らが倭国へ派遣されたのではないもう一つの根拠は、倭国であれば詔書・黄幢を授ける相手は倭の国王(実際は伊都国王)であるはずだが(240年の事例を参照のこと)、そうではなく難升米であったことである。なぜなら当時難升米は帯方郡にいたので、張政が洛陽から持ち帰った詔書・黄幢は、帯方郡において、太守が難升米に拝仮したのである。
①②の理由から、張政らは倭国へ来てはいないと断じてよい。また難升米のその後の行動が不詳なため推測でしがないが、かれが託された詔書・黄幢などは、卑弥呼が生きている間に届けられたかどうかもわからない。おそらく間に合わなかったのではなかろうか。

とくに問題なのは、壱与が20人もの使者を立てて「台」(魏の都・洛陽)にまで派遣し、大量の品々を貢献した際、「張政らの還るを送らし」めたという表現がなされていることである。張政らが倭に来ていたとしても、朝鮮半島の陸路か沿岸海路を北上して帯方郡に至る間、壱与の使者集団を引率帯同するのは張政の役目であろう。間違っても、張政が倭国の使者たちに送られるような存在であるはずがない。それでは主客顚倒というものである。にもかかわらず、そうとしか読みとれない表現がなされているのはなぜか。この時張政の立場に劇的な変化をもたらす、深刻な事態が起きていたのではあるまいか。

安本先生の考え
大和朝廷は海外からの使者が来た場合、日本を離れるまで見送る使いをつけている。
『日本書紀』の例、敏達天皇二年五月「仍(よ)りて吉備海部直難波(きびのあまのあたひなには)に勅(みことのり)して、高麗(こま)の使(つかいひ)を送(おく)らしむ。」とある。
『続日本書紀』の例、光仁天皇宝亀九年十二月「己丑、従五位下布勢(ふせ)朝臣清直(きよなお)を送唐客使(おうたうかくし)とす。」とある。

村井氏の考え
邪馬台国の終焉と「神武東征」
私は、『魏志倭人伝』の記述が終る頃、つまり魏が滅亡する前後に邪馬台国も滅んだと考えている。『魏志倭人伝』の最後が年次を欠くのは、そうした中国社会の流動する事態のなかで逐一説明しきれなかった、というか、説明することを放棄した結果ではなかろうか。
卑弥呼が没した頃、倭国の争乱に乗じてあらたな勢力が東に向けて移動しはじめ、やがて邪馬台国は激しい攻撃にさらされることになる。『魏志倭人伝』からは知ることのできない邪馬台国最後の状況は、じつは『日本書紀』が克明に記録していたのである--。それがいわゆる「神武東征」に他ならない。

長髄彦は生駒地域の首長だっただけでなく、饒速日命の率いる邪馬台国連合の総大将であったとみられる。神武軍の侵攻をまず生駒でくいとめた上、桜井への侵入にも立ち向かい、最後の戦いの指揮をとったのも、同じ理由による。

邪馬台国は外部勢力(神武軍)の侵攻を受けて滅亡したが、しかし戦闘に敗れた結果ではない。総帥・饒速日命が最後の段階で、戦わずして帰順したからである。饒速日命は、もっとも信頼のおける部下の長髓彦を殺してまでも和平の道を選んだのである。饒速日命の決断は正しかったどうか、その行為の意味を検討してみる必要があろう。

しかしこの天孫降臨の話で不可解なのは、葦原中国の統治権を得た天孫の降臨先が、なぜ大和ではなく、九州日向の高千穂の峯(鹿児島県霧島、又は宮崎県高千穂峡とする)であったのか、である。地上全土を譲られたのであれば一挙に本拠地の大和に降ってしかるべきではないか。
ところがそうはしなかった。そればかりか、後年、大和へ入るために東征という大事業を起こさねばならなかった。これでは何のための国譲りであったのかと疑いたくなる。思うにそれは、もともと天孫とされる神武の勢力が、おそらく南九州あたりに本拠をもつ豪族だったからで、そこからしか邪馬台国連合の中心地である大和へ侵攻することができなかったのである。
このようにみてくると、饒速日命を記紀では天神と記すが、これは後世の作為であり、本来は出雲族で邪馬台国の王のような存在であったとみるべきである。後述するように、後世諸氏族がそのルーツを大和朝廷とのつながりの中に求めた結果であると考える。

神武の后として、大物主神の巫女が選ばれたのは、出雲勢力の奉祭する出雲の神の力を取りこみ、大和に残る出雲族の服属を意図したものであったといってよいであろう。三輪山・大神神社のもった重みがしのばれる。

三つは、『魏志倭人伝』で知られる倭の女王、邪馬台国の卑弥呼の名が、『古事記』『日本書紀』に全く出て来ないことである。その辺りの検討は本文にゆだねるが、実は『日本書紀』の編纂者たちは『魏志倭人伝』の内容も卑弥呼の存在も熟知していたのである。にもかかわらず卑弥呼の名を出さなかったのは卑弥呼が大和朝廷と無縁の存在であり、大王=天皇家の皇統譜に載せられるべき人物ではなかったからである。したがって邪馬台国は大和朝廷にはつながらず、その前身ではなかったということになる。

以上の三つのデータを重ね合わせると何がいえるであろうか。それは、邪馬台国は出雲勢力の立てたクニであった--。
この結論は我ながら俄に信じ難かったが、これを仮説として検討を進めるなかで疑う余地のない実説となった。それどころか出雲の存在とその役割を直視すればおのずから導き出される結論であったと、いまでは考えている。

安本先生の考え
①卑弥呼はだれか、という問題になにも答えていない。
②荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡に、名まえだけふれているが、特別のことをいっていない。
③神武天皇の時代を邪馬台国時代よりもあととしながらその年代的根拠をのべていない。
④だれが議論しても同じ結論がえられるようにするという客観性を得るため「再現性言語」などへの配慮がない。
⑤方向記事について、『魏志倭人伝』は、「伊都国」と「女王国」との位置関係を、三度にわたって記す。
すなわち、次の三度である。

a.『魏志倭人伝』の記す旅程では、伊都国を経て、終わりは、「南、邪馬台国にいたる。女王の都するところ」と記している。順路の読み方は、「順次式」「放射式」などがあるが、大略、「邪馬台国」は、「伊都国」の南にあったことになる。
b.『魏志倭人伝』は、「女王より以北は、その戸数・道里は略載するを得べし」と記す。戸数・道里を略載されているのは「対馬国」「一支国」「末蘆国」「伊都国」「奴国」「不弥国」である。これらは「女王国の以北」にあったのである。
すなわち、「女王国」は「伊都国」の「南」にあったのである。
c.『魏志倭人伝』は、また記す。
「女王国より以北には、とくに一大率をおいて、諸国を検察させている。(一大率は、)つねに伊都国に(おいて)治めている。」
ここでも、「伊都国」は、「女王国」の北だと記されている。つまり、女王国は、「伊都国」の「南」だというのである。『魏志倭人伝』に三度にわたって記されている「伊都国」と「女王国」との位置関係についての方向記事は、三度とも誤りだというのであろうか。
『魏志倭人伝』の「南」は、「東」の誤りなどと、そんなに簡単にのべてよいのであろうか。『魏志倭人伝』は、「里数」も「方向」も、何度も念をおすような書き方をしている。そのような記事こそ、書きまちがいなどの可能性がよりすくなく、より信頼できる記事とみるべきである。
邪馬台国については、「女王国=邪馬台国」とする説と、「邪馬台国は、女王国の一部で、首都のある場所」とする説がある。いずれのばあいも、邪馬台国は、伊都国の南にあることになる。
「邪馬台国論争」は、『魏志倭人伝』の記事をもとにして起きている。『魏志倭人伝』に記されている事物の出土状況も、位置情報も無視して議論してよいのであれば、どんな議論でもできてしまう。

・女王国は伊都国、奴国、不弥国の大略南であり、『魏志倭人伝』の範囲では、90°方向が違っている例はない。


(2)出雲王国の正体(武光誠)[2013年3月刊]
武光氏の考え
現在、私たちが信仰するような神社のおおもとは、弥生時代中期の出雲でつくられたと考えられます。2世紀なかばの荒神谷遺跡で行われた大国主命の祭祀が、今日みられるような神道の祀りのおおもとでした。
6世紀はじめに王家が天照大神信仰をつくったことによって、神道は大きく発展しました。しかし天照大神信仰の中から生まれた、大国主命の祭祀と深いかかわりをもつものでした。

「天下造(あめのしたつく)らしし大神命(おおかみのみこと)」の表現が九例、「天下造らしし大穴持命」が一例、「天下造らしし大神」が十例である。こういった表現は、大国主命が国作りの神であるから、朝廷は出雲の諸豪族を特別扱いすべきだという主張にもとづいて記されたものだ。

安本先生意見
天照大神信仰が大国主の後は疑問。

(3)敗者の古代史(森浩一)
饒速日命と長髄彦は、記紀の「神武東遷」の説話に河内平野や奈良盆地の先住の支配者として登場する。神武軍に対する防戦の末、饒速日が舅(しゅうと)の長髄彦を殺して帰順するのが『日本書紀』の筋書きだが、金鵄(きんし)が神武に加勢するような戦いの記述は古社の存在からみて、饒速日こそ北部九州から東遷を実行した人物であり、その伝承を取り込んで神武東遷の逸話が成立したことがうかがえる。

寛平5年(893)10月の『太政官符』によると、大和国城上郡の宗像神社が筑前国宗像郡の宗像大神と同神であることをわざわざ述べている。さらに筑前国宗像郡の金埼(かねざき)(鐘埼)の16人の正丁(せいてい)を大和の宗像神社の修理に派遣している。金埼は海女の多い海村で宗像大社の信徒圏である。宗像七浦のなかでも重要な土地である。
ぼくは饒速日命の東遷前の主要な勢力圏は北部九州の東半分の宗像から豊前の企救(きく)、さらに豊後の一部にも及んだ可能性が強いとみていて、鳥見[とび](外山)の地に宗像神社が遷(うつ)されたのと饒速日の東遷伝承とは深くかかわっているとみている。
序に書くと、豊前と豊後が分かれる前は豊国(とよのくに)だった。饒速日の饒(にょう)は食料の豊かなことを意味し、豊国の豊と同じ意味である。人名もその人の出自(故郷)を知る手がかりとなることがある。

安本先生意見
・植民地政策
武力で支配する。
租税制度が、国家が国家たらしめる。
日本の植民地政策はロシアの植民地政策に似ていた。
最後は北海道までに行った。部族国家は租税を取っている植民地主義国家にはかなわない。大和朝廷による植民地政策により、日本語で統一された。
近代に欧米の植民地政策に対し、徳川幕府が植民地化されなかったのは、日本語で統一されていたことも大きな要因である。

・両系相続
高群逸枝(たかむれいつえ)の説がある。
新撰姓氏録の研究はよく調べている。
身分の高い王子が他の国へ行き、そこの娘をめとりその国を支配する。
娘の一族と高貴の王子の一族の両方を支配する。
秦忌寸(はたのいみき)は邇芸速日命の子孫であると書いてある。秦忌寸は渡来系の子孫(秦の始皇帝の子孫)である。何故それが邇芸速日命の子孫となるか、それは秦氏の娘を邇芸速日命系の王子が娶ると、その子は両方の支配権を持つ。
これが大和朝廷の支配の構造であった。

 

「初期・最盛期銅鐸」と「終末期銅鐸」の分布

島根県から大和にかけてきわめて広い範囲にわたって、出雲(大国主命)勢力があった。国譲りの結果、天菩比命が出雲の方に下り、邇芸速日命が近畿の方へ下った(260年から270年ごろ)。邇芸速日命勢力がその土地の伝統を引き継いで作ったのが終末期銅鐸であり、静岡県まで伸びている。この終末期銅鐸の銅の原材料は出雲地方の銅鐸とは違い、北九州の広型銅矛や広型銅戈、北九州の小形仿製鏡と同じである。つまり銅鐸の形式としては、その土地の伝統を引継いでいるが、銅の原料は北九州から持ってきた。北九州から銅の原料を持ってきたのが邇芸速日命勢力である。この大きい銅鐸を作った尾張氏という勢力は静岡県の方まで広がっている。

322-02

その後神武天皇が来て、新しいシンボルが鏡となり、銅鐸が廃止された。ちょうど日本が戦争に負けて、日の丸を表に飾ることを恥ずかしく思い、箪笥にしまったのと同じではないか。このようにして銅鐸が廃棄された。
銅鐸の北限は長野県と静岡県の境のところまで来ていた(280年~300年ごろ)。これが、崇神・垂仁・景行天皇の時代、特に景行天皇の時代に日本武命の東征で三角縁神獣鏡が銅鐸の北限を越えて、群馬、埼玉、茨城、福島から出るようになる。
三角縁神獣鏡は銅の原料が最終末銅鐸とは違い中国の南方系の銅が入っている。しかし一部に三遠式銅鐸の銅を溶け込ましているのではないかと考えられる。




322-03



位至三公鏡の鏡が年代を決める手掛かりとなる。位至三公鏡は中国北部の鏡であるが、銅の原料は中国南方系の銅である。これは呉が滅んで、中国南方系の銅が北方に流入したものと考えられる。
この位至三公鏡と同じ銅材料のものが、畿内から出る画紋帯神獣鏡となる。このように位至三公鏡を基準に時代を考えると、邪馬台国時代は銅鐸の時代とかさなると考えられる。

322-04

 

東大の和辻哲郎は邪馬台国東遷説を唱えた。北九州の勢力は鏡、玉、剣をシンボルとし、それに対し銅鐸の勢力があって、この銅鐸勢力を滅ぼしたとした。これは基本的にあっているのではないか。つまり下図のような勢力範囲になっていた。
最終的には神武天皇が奈良県に入り、大和朝廷となったと考えられる。

322-05

 

・「ヒノキの年代」は」省略

 



2.邪馬台国の東遷と饒速日の命

いくつかの説を紹介する。

(1)『隠された物部王国』(情報センター出版局2008年刊)谷川健一
『日本書紀』によりますと、神武が東征した先には、『饒速日』と『長脛彦(ながすねひこ)』に率いられた強力な連合軍が待ち受けていました。彼らは河内・大和の先住豪族でした。「私は、東遷と降臨は大いに関係があると考えています。それが『日本書紀』や『旧事本紀』の神武東征説話のなかに反映されている。すなわち、神武帝の東征に先立ってニギハヤヒが『天磐船』に乗って国の中央に降臨したことを認めている。このニギハヤヒの東遷は、物部氏の東遷という史実を指しているものと私は受け取っております。

物部氏の出身は、現在の福岡県直方市、もしくは鞍手(くらて)郡あたりのようです。

 

(2)『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館1990年)坂本太郎・平野邦雄監修
「(物部氏の)本拠は河内国渋川郡(大阪府八尾市・東大阪市・大阪市の各一部)の付近で、同系氏族・隷属民はすこぶる多く『八十物部(やそもののべ)』と袮された」

八尾市渋川にある渋川廃寺は、物部氏の氏寺と推測されている。

(3)『日本古代氏族事典』(雄山閣1994年刊)佐伯有清
物部の連(むらじ)の本宗家は、渋川郡を中心として強大であった。
6世紀ごろ、物部の弓削の守屋の大連(おおむらじ)[以下、物部の守屋と記す]は、蘇我の大臣馬子の宿禰(以下、蘇我の馬子と記す)と、崇仏論争をはじめ、ことごとく対立する(地図に、弓削の地名がある)。
物部の守屋は、阿都(あと)[のちの河内の国渋川郡跡部郷。現在の大阪府八尾市跡部渋川・植松ふきん]に兵を集めた(地図 に、阿都も記されている)。
蘇我の馬子は、物部の守屋討滅の軍をおこす。
西暦587年、物部の守屋は、蘇我の馬子、聖徳太子らの諸皇子連合軍に敗れて殺される。
『日本書紀』の崇峻天皇の即位前記は記す。
「軍兵をひきいて、志紀(しき)郡[大阪府南河内郡美陵(みささぎ)町・八尾市南部。現在、八尾市志紀町がある]から、渋川の家(物部の守屋の邸宅)にいたる。物部の大連守屋は、みずから子弟と奴隷軍とをひきいて戦った。」
物部の守屋は、物部氏の本拠地で戦って死んだのである。

なお、大阪府八尾市の旧跡部郷の地には、跡部遺跡があり、流水文銅鐸など、二つの銅鐸が出土している。
この地の銅鐸について、石野博信氏がつぎのように述べておられる。
「(大阪府八尾市の)跡部(の銅懌)もそうですね。(埋めた時期は)庄内とは言わないまでも、さかのぼっても後期です。」
ここの銅鐸の出土と、この地が、物部氏の根拠地であることとは、やはり関係がありそうである。

物部氏の祖先が饒速日命である。饒速日命は神武天皇に先立って畿内に天下たとされている。
下図を見ると、『魏志倭人伝』に「倭人は鉄鏃を使う」と書いてある。その鉄鏃や、卑弥呼がもらった可能性がある魏晋鏡は近畿において、奈良県は少なく、京都府、大阪府、兵庫県が多い。
奈良県は畿内で何ら特別の意味を示していない。邪馬台国時代では遅れている地域であった

何故なら、京都府、大阪府、兵庫県は饒速日命の地盤だからである。奈良県が大和朝廷のもとに入ったのは神武天皇以降である。奈良県で画紋帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が出るようになるのは神武天皇以後となる。



322-06



大阪の現在の真ん中付近には河内湖があった。その河内湖の下の渋川郡が物部氏の本拠地であった。現在物部の守屋の墓がある。その近くの亀井遺跡、跡部遺跡から銅鐸が出ている。この銅鐸が物部氏と関係する。

322-07

 

また、この渋川郡のあたりから、最も沢山の庄内式土器が出て来る。近畿でもう一つ庄内式土器がでてくるところが、下図に示す纒向遺跡を含む付近である。このあたりは後ちの磯城の県主の治める地域である。磯城の県主(あがたぬし)は物部氏の子孫である。

だから物部氏と庄内式土器は関係があると思われる。

322-08

 

■庄内式土器の出土する場所
考古学者の石野博信氏は、『古墳はなぜつくられたか』大和晝房、1988年刊)のなかで、下図 のような図をかかげ、庄内式土器について、つぎのようにのべられる。
「地図で九州の例を挙げていますが、近畿より西側で庄内式土器がいちばんまとまって出てくるのが九州です。岡山ではいまのところ二、三点程度、鳥取県で二、三点ぐらい、滋賀県はありますが、福井県でちょっとという感じです。東海地域は二、三遺跡ぐらいで、関東では東京都内の板橋で一点と横浜でそれらしいのが一点出ています。ほかにもあるかもしれませんが、ごく少数です。そういう地域の中で、九州は非常に多いのですが、九州に入っている庄内式土器は圧倒的に大和系の庄内式の甕ですから、大和と九州との関係が強く考えられるかもしれません。一つの解釈をすれば、九州が大和の人間を労働力として集めたということになりますが、普通はそうではなくて、この現象については近畿の勢力が九州を取り込んだ証拠だという解釈がどっちかというと強いわけです。その辺も片手落ちでして解釈に一貫性かありません。一貫性がない場合は、何か説明が要るのだろうと思いますが、事実としては大和系のものが多くて、河内系のものは一遺跡、四、五点ぐらいです。」(ただし、以下引用文中の図番号は、原文献と異なっている。)

322-09

 

石野博信氏はまた、『邪馬台国と安満宮山(あまみややま)古墳』(吉川弘文館、1999年刊)におさめられた「邪馬台国と大和」という文章のなかで、つぎのようにものべられる。
「『庄内式土器の生産地』(地図上をごらんください。庄内式と呼んでいる、近畿地方で三世紀に使われた土器が主に分布しているのが太い線で囲んだ範囲です。210年から290年ぐらいの間に使われた土器で、同じ奈良県でも、もっと北の奈良市とか、南の飛鳥、あるいは西側の葛城の地域では、出てはいますが、主には使われていません。大阪平野でも、八尾とか東大阪あたりは集中的に使われていますが、この(安満宮山古墳のある)高槻地域とか兵庫県の神戸などでは、出てくるけれども中心的には使われていないという、非常に地域と年代の限られた奇妙な土器なんです。」
庄内式土器は、大阪府豊中市の庄内遺跡出土のものを標識とする土器である。しかし、現時点では、豊中市域は、庄内式土器の作られた場所ではないといわれている。土の分析などからは、八尾市や東大阪市あたりで作られている。

■畿内の庄内式土器の出土地は、物部氏の根拠地であった
ここに、注目すべき、重要な事実がある。
それは、大阪府および奈良県の庄内式土器が、古代物部氏の根拠地であったことである。大阪府のばあいをとりあげる。
すでに紹介した石野博信氏の文章中にあるように、大阪平野では、「八尾とか東大阪あたりは(庄内式土器が)集中的に」使われている。
そして、八尾や東大阪あたりは、物部氏の本貫地(本籍地)であった。

 

■凡河内(おおしこうち)氏[大河内氏]

河内湾は物部氏の根拠地があったところで、その現地マネージャは凡河内氏である。
凡河内氏で有名なのは『古今和歌集』の撰者になった平安時代の歌人の凡河内躬恒(みつね)である。
凡河内の祖先は饒速日命と一緒に天下ったと『先代旧事本紀』は記している。

前記の『日本古代氏族人名辞典』の大河内の項に下記がある。
大河内とは河内のみならず和泉・摂津国も含めた河内地方全体に関わるものであろうが、河内・川内を称する渡来氏族を統率することを表わすという説もある。」

また、『日本古代氏族事典』の凡河内(おおしこうちの)項にも下記がある
「河内・摂津・和泉を含んだ広い領域を統轄する国造に任命され、支配領域下の渡来氏族や県(あがた)・屯倉(みやけ)に対する編戸制的な人民支配を行なったとされている。」

凡河内氏は和泉、河内、摂津を支配していた。山城も支配下である。

氏姓制度では臣(おみ)・連(むらじ)の下の直(あたい)で、更にその下が首(おびと)などである。
凡河内氏は姓(かばね)が直(あたい)であり、郡の長クラスである。その上に臣(おみ)クラスの物部氏がいた。

322-10

 

 

■凡河内氏の系図

『古事記』、『日本書紀』に記載されている系図から、天津彦根の命の子孫が凡河内直であるとされている。

『先代旧事本紀』は下図⑦の「天の火明(ほあかり)の命(みこと)」を「天照国照彦天(あまてるくにてるひこあま)の火明(ほあかり)櫛玉饒速日(くしたまにぎはやひ)の命」と記し、尾張(おわり)氏と物部氏の祖とする。天の火明の命を、饒速日の命と同神とする説を本居宣長は『古事記伝』で偽説とした。田中卓氏は同神とみてよいとする。

『新撰姓氏録』は火明の命の子の、天の賀吾山(かごやま)の命を、尾張の連、尾張の宿禰(すくね)の祖とする。
『新撰姓氏録』に「山代直(やましろのあたい)、火明の命の後(すえ)なり。」とあり、「伊岐志邇保(いきしにほ)の命、山城国造(くにのみやつこ)の祖(おや)とある。『先代旧事本紀』「天孫本紀」に、饒速日の命の別名として、「胆杵磯丹杵穂(いきしにきほ)の命」とある。

天津彦根の命の子の系図

 

 

322-11

 

 

天津彦根の命の後裔氏族が活動した地域を下記に示す。
その氏族後裔は近江にまで及んでいる。

この地図から、大和は空白となっている。

初めのところで述べた「出雲の大和(村井康彦)」の説の邪馬台国時代に奈良県に大きな勢力があったとは言えない。
最近、纒向が邪馬台国時代のものだと唱える説があるが、このように邪馬台国時代に何も無いところには言えないのではないか。

322-12






  TOP>活動記録>講演会>第322回 一覧 上へ 次回 前回 戻る