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第316回 邪馬台国の会
邪馬台国が福岡県(九州)である確率
神武天皇の「実在論」「非実在論」の検討
神武天皇などの「非実在説」抹殺博士主義の哲学的基礎
「棺あって槨なし」


 

1.邪馬台国が福岡県(九州)である確率

■ベイズの定理
最近注目されているものに「ベイズの定理」がある。これは、結果から原因を推定する確率論で、下記の朝日新聞の記事を紹介する。
・300年後に脚光ベイズの定理(2007年11月24日(土)『朝日新聞』朝刊)
 迷惑メール対策や人工知能・新薬開発
迷惑メール判別フィルター、マーケティング理論、気象予測、人工知能、新薬開発・・・。
最近、こうした分野で必ず聞く名前がある。「ベイズ」。18世紀の数学者トーマス・ベイズのことだ。彼が提唱した確率論「ベイズの定理」は約300年後、応用され、情報処理の土台になる理論として注目されている。          
蘇る18世紀の確率論
・迷惑メールの判別に「ベイズの定理」を応用した振り分け技術が役に立つ。02年に米国で専門家が論考を出して以来、ベイズの名前は一般にも知られるようになった。
日本で、この定理に基づく判別フィルターを最初に導入したのはニフティだ。担当した同社のチーフエンジニア工藤隆久さん(37)は03年秋、役員会でのプレゼンテーションの反応を覚えている。
「この迷惑メール対策フィルターは、もともとは18世紀の数学者だったベイズという人が発見した確率の理論ですと説明したら、役員たちから 『ほお!』という感嘆の声が上がったんです」
トーマスーベイズは1702年ごろにロンドンで生まれた。詳細な履歴は不明だが、長老派教会の牧師で、アマチュアの数学者。死後に出された確率論の論文をもとに、後の学者がベイズの定理を完成させ、それをもとにベイズ統計学が生まれた。
統計学の歴史で、ペイズは長く異端とされてきた。ベイズ統計に詳しい上智大の松原望教授(65)は言う。「例えば、土星の質量。普通の統計学では、それはデータがないから扱えない。だが、ベイズ統計学では、さまざまな経験や見通しを交え、確率分布で『このくらいから、このくらいの間の重さ』と、『だいたい』のことを言う。
現実には一通りしかないものに確率分布があるのはおかしい、科学的態度ではないと批判されてきた」
ベイズの定理はよく簡略化した式を使い、クイズでその原理を説明される。
〈箱Aに青玉10個・赤玉30個、箱Bに青玉20個・赤玉20個があった。無作為に箱を選び、一つ取り出したら赤玉だった。この赤玉が箱Aから取り出された確率は?〉
   まずは推測
箱Aの方を選ぶ割合は半分の50%。だが、「赤玉」という結果を見てから考えると、箱Aを選んだ確率は変わる。
箱A(仮説H1)と箱B(仮説H2)からそれぞれ赤玉が取り出される確率の中で、箱Aから赤玉が取り出された確率(式で分子)なので、正解は60%に変わる。
新情報(赤玉)によって、過去に起きたこと(箱Aの選択)の確率が修正される。逆に言えば「とりあえず」と原因を確率的に推定すれば、結果がある程度予測できる。

これは、表にあるように赤い玉の数の合計から推定できる。
箱A:30/(30+20)=30/50=60%



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・ベイズの定理を応用して、「邪馬台国は福岡県か奈良県か?」と「邪馬台国は福岡県か奈良県か?」を推定してみた。
「邪馬台国は福岡県か奈良県か?」では福岡県は
庄内期の鏡:91%
弥生時代の鉄鏃:99.9%ととなる。(下記参照)
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「邪馬台国は福岡県か奈良県か?」では九州は
庄内期の鏡:75%
弥生時代の鉄鏃:92.9%
更に勾玉:99%ととなる。(下記参照)


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こように、福岡県か奈良県かとして、福岡県が圧倒的に高い確率で邪馬台国時代の遺物が出ている。
また、九州か近畿かとしても、九州から高い確率で邪馬台国時代の遺物が出土している。福岡県か奈良県より、九州か近畿が確率が下がるのは、近畿では京都府や、兵庫県や大阪府からの出土が多いからである。

「データを総合的にみること(統計学)」と「反対の人も、みとめざるをえない再現性のあるデータにもとづいているか」と「たんなる感想にすぎないか」が必要で、邪馬台国は想像によってではなく、科学的推定方法によって求めるべきである。




2.神武天皇の「実在論」「非実在論」の検討

神武天皇が実在したとするなら、280年~290年頃だと思われる。

■河内湖
『日本書紀』の神武天皇の物語に、つぎのような話が記されている。
「神武天皇が、南九州から出発し、海軍[船師(ふないくさ)]をひきいて、東征し、難波(なにわ)の碕(みさき)に到った。そのとき、はなはだ急に奔(はし)っている潮流にであった。この急流をさかのぼって、河内(かわち)の国の草香邑(くさかむら)の、白肩(しらかた)の津にいたった。」

このことから、大阪に河内湖があり、古代には内陸部まで入れたと思われる。
①大阪湾から入ろうとしたら、早い潮流があった。
 (湾の狭いとところは干満のとき潮流が速い)
潮流が速い例はその他に「有明海」や「東京湾の走水」がある。
・有明海
島原湾の入口のところにある早崎瀬戸[はやさきせと](早崎海峡)については、地名学者の吉田東伍が、その編著の『大日本地名辞書』(冨山房、1972年版)のなかで、[潮流強疾(きょうしつ)(強くてはやい)」「急速を以て其名高し」と記している。

・吉田東伍は、「大日本地名辞書」のなかで、つぎのように記している。
「走水は古書に、馳水(はしりみず)にも作る。その走水(はしりみず)の渡(わたし)とは、浦賀海峡を指す。走水の名は、この問の奔潮が急速なので起きたのであろうか。」

②日下(草香)まで、船で直接行くことができた。
  以上述べてきたことは、考古学者の森浩一氏が、すでに、つぎのような形で、かなりくわしく考察している。
「現在の地形では、瀬戸内海を東に進んで大阪湾に入ると、大阪港があり、あとは延々と陸地が続いて生駒山のふもとに至っているので、イワレ彦(安本註。神武天皇)の物語を読むさいに、イワレ彦の軍勢は船を降りて陸路をとり、クサカで大和の軍勢と戦った状況と思いがちである。だが物語のうえでは、そうではない。『記』では、ナニワ(浪速)の渡(わたし)を経てさらに船で進み、ナガスネ彦の軍勢と遭遇したとき、『船につんでいた盾を取り出したので、その地を盾津と呼んだ』という。『紀』では地形の描写はもっと細かく、難波の崎(みさき)に至ると急流に出遭い、浪が速いというので浪速とよぶようになり、難波という別の表現もできたといっている。イワレ彦の軍勢は、この急流を遡って河内のクサカに至り、戦っている。このように『記・紀』のいずれもが、今日の大阪市北部のあたりから、そのまま船に乗って生駒山麓に至ったと述べている共通点がある。このことは、これから述べる河内平野の地形復元の成果と一致しており、イワレ彦の物語は、少なくとも古地形と矛盾しない形で展開している。(森浩一著『日本神話の考古学』朝日新聞社、1993年刊)

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■神武天皇陵の話
古代天皇陵の陵形[宮内庁諸陵寮による。カッコは小林行雄氏による]で、古代の天皇の陵形は前方後円墳になっていないで、円墳や山形になっている。
もし、神武天皇以前の天皇が机上で創作した天皇だとしたら、前方後円墳にしてもよさそうなのだが、違っている。また壬申の乱のとき、神武天皇の陵墓に捧げものをしたとある。『日本書紀』で神武天皇を創作したとしたなら、なぜこの頃に祀っていたのかの疑問もでる。

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■宇沙都彦の話
神武天皇が東征したとき、宇佐に立ち寄より、宇沙都彦が対応する。神武天皇が即位してから、宇沙都彦の子孫が宇佐の国造(くにのみやつこ)となる。

小田富士雄・長嶺正秀編の『石塚山古墳の謎』(海鳥社刊)のなかで、大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館の真野和夫氏は、つぎのようにのべている。
「宇佐市という所は国東半島の北西部に位置し、豊前一帯の中でも京都平野に次ぐ形で広い平野部を擁している所であります。そして非常に重要なことは、宇佐平野においては今からお話する赤塚古墳か築かれます川部・高森古噴群という古墳群のほかに、それに匹敵する古墳群がないということであります。
このことは非常に重要なことでして、『日本書紀』の『神武東征説話』の中に国造の祖『菟狭津彦(うさつひこ)、菟狭津媛(うさつひめ)』という人物が出てくるわけですけれども、そういう宇佐国造と言われる者の墳墓が、この川部・高森古墳群にあると、こういうふうに考えることができるわけです。」
ここにでてくる赤塚古墳からは、5面の三角縁神獣鏡がでている。
赤塚古墳の築造年代について、『日本古墳大辞典』は、「四世紀代後半の年代が与えられよう。」とする。
『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』の「国造本紀」は、神武天皇の時代に、「高魂(たかむすび)の尊の孫の宇佐都彦(うさつひこ)の命を国造に定めた。」と記す。

明治維新後に東大教授となった栗田寛(くりたひろし)(1835~1899)は、『国造本紀考』のなかで、つぎのようなことをのべている。
「(『先代旧事本紀』の)『天孫本紀』のなかで、饒速日(にぎはやひ)の命の供人のなかに、天の三降(みくだり)の命は、豊国の宇佐の国造などの祖とあるのは、高魂の尊の子で、宇佐都彦は、その子であろう。したがって、『国造本紀』で、高魂の尊の孫とあるのに合っている。」 
「『八幡本紀』に、(宇佐八幡宮)大宮司は、宇佐の公(きみ)の姓(かばね)で、宇佐津彦の命の後裔とあるのは、根拠があるであろう。」

・系図
高魂の尊---(天の三降の命)(宇佐国造の祖)--- 宇佐津彦の命(宇佐国造)

国東半島の西の根元に宇佐があり、それを拡大したのが左の図で、そこに赤塚古墳がある。(下図参照)


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神武天皇について、
①卑弥呼・邪馬台国のころ、大和朝廷は、まだ成立していなかったとみられる
②神武天皇が実在したとしたばあい、その時代は、270年~280年前後か。
a.上代ほど、1代平均在位年数はみじかくなる傾向がみられる。
b.欠史8代は、在位期間がみじかい?
c.第10代崇神天皇から9代まえが神武天皇。
③天の穂日の命(あめのほひのみこと)(出雲の国ゆずり)(260年ごろ?)④饒速日(にぎはやひ)の命(270年ごろ?)             ---第1次の東遷
⑤神武天皇 (280年ごろ?)              ---第2次の東遷



3.神武天皇などの「非実在説」抹殺博士主義の哲学的基礎

戦後、津田左右吉の説の実証主義的文献批判が主流となって、『古事記』、『日本書紀』の古代の天皇の存在を否定するようになった。
この実証主義は、一般に考えている『実証主義』とは違う。

注:
実証主義(じっしょうしゅぎ)
経験の背後に、または経験をこえて、何かがあるということを認めようとしない哲学、または思想上の一つの立場をいう。いいかえればわれわれが経験によって確かめられることのできないような原理をあらかじめ想定し、それによってわれわれの経験を説明しようというのではなく、われわれが実際に確かめられること以外はすべて疑っていこうという考え方である。
したがって、実証主義の立場から断言できることはわずかではあるが。確実なことばかりである。

このことをギリシャ哲学の田中美知太郎氏が対談で述べている。
村川:19世紀の実証主義的な原典批判でずいぶんたくさんの偽作説があらわれましたね。
田中:ええ、『ソクラテスの弁明』さえも偽作だという。なぜかというと、プラトンはイデアを観照しているんだから、ソクラテスが弁明するというような作品を書くはずがない、というんですね。学説でも、バーネット・テーラー説が天下を風靡したときに、ぼくはどうもあやしいと思ったけれども、日本ではそれが公理みたいに扱われていたことがありましたね。十九世紀の原典批判も、いまから考えてみると、あれは一種の思考実験で、あるプリンシプルでもってどこまでも徹底させると、どういう結果になるかを見せてくれる。真偽論の基準みたいなものを立て、それを極端に厳格にあてはめると、プラトンの著作は、たいてい贋物(にせもの)になってしまう。」

また、東京大学の学長もされた西洋史学者の林健太郎氏は、その著『歴史と体験』(文芸春秋社刊)のなかで、かつて拙著の『神武東遷』(中公新書、1968年刊)をとりあげ、その方法論の大略を紹介されたのち、つぎのように述べておられる。
「私もこれが今日の史料学の正しいあり方であると思う。曾ての史料学の素朴実証主義は正に『樹を見て森を見ない』危険性を包蔵しているのである。」

「素朴実証主義」は「実証主義」と違う。

ここでいう「実証主義」(「素朴実証主義」のこと)は19世紀の有力な科学哲学、つまりオーストリアの物理学者のエルンスト・マッハ(1838~1916)などが、一般的な形で説いた実証主義哲学のことである。
実証主義哲学は、すべての超経験的なものを考えることを否定した。実証主義哲学の認識方法を、確実な認識方法の典型であるとした。直接経験しうる事実だけが、認識できるものであるとした。
実証主義哲学は、疑い深いことをモットーにしていたといえる。そして、直接経験しうるものの背後にあるものを問題にするのは、科学的でないと主張した。 
この立場の人々は、たとえば、物理学においては、「原子など目にみえないものの存在を考えるのは、形而上学的(内容のないことばのもてあそび)である。」として、原子論的な立場の人々と対立した。
そして、原子の考えを抜きにして、科学を進めようとした。
しかし、今日、原子論に反対する科学者はいない。原子の存在を考えることなしに、さまざまな事実を包括的にとらえ、適確な学問的予想をたてることは、困難であるからである。
19世紀の文献批判学も、実証主義哲学を背景としている。
実証主義の立場に立つ物理学者が、個々の実験事実や現象だけをみて、その奥にある原子をみなかったよう、実証主義の立場にたつ文献学者は、個々の文献だけをみて、その背後にある史実をみない傾向がある。そこでは、文献そのものの批判研究に焦点がしぼられ、史実の把握は、二次的なものとされる傾向がつよい。                
「文献によって史実をさぐるまえに、文献そのものの検討が必要である。」というようなことが強く主張される。

個々の実験事実や現象は、原子などが、われわれの五官に認知されうる世界に落した影であり、個々の文献や遺物も、史的事実がまず存在して、それが落とした影であるともいいうる。

マッハ(Ernst Mach)はオーストリアの物理学者・哲学者。近代実証主義哲学の代表者。超音速流の研究を行い、ニュートン力学に対する批判はアイシュタインに大きな影響を与えた。一方で、実証主義の立場からボルツマンの原子説に反対しつづけた。主著「力学史」。
マッハ主義はマッハに始まる実証主義的な認識論の立場・傾向で、物質や精神を実体とする考えに反対し、直接に経験される感覚要素だけが実在的であるとし、事物にはすべて感覚の複合・連関であり、物と心の区別も要素の結びつけ方の相違にすぎないとする。

マッハの認識論の核心部は現在では「要素一元論」と呼ばれていることがある。ヨーロッパで発達した近代哲学や近代科学というのは(それを実践する人々は一般に全く自覚していないが)主・客二元論や物・心二元論などのパラダイムの中にいる。マッハはそれの問題点を指摘し、直接的経験へと立ち戻り、そこから再度、知識を構築しなおすべきだとした。つまり我々の“世界”というのは、もともと物的でも心的でもない、中立的な感覚的諸要素(たとえば色彩、音、感触…等々)から成り立っているのであって、我々が「物体」と呼んだり「自我」と呼んでいるのは、それらの感覚的要素がある程度安定した関係で立ち現れること、そういったことの複合を、そういった言葉で呼んでいるにすぎず、“物体”や“自我”などというのは本当は何ら“実体”などではない、と指摘し、因果関係というものも、感覚諸要素(現象)の関数関係として表現できる、とした。そして「科学の目標というのは、感覚諸要素(現象)の関数的関係を《思考経済の原理》の方針に沿って簡潔に記述することなのだ」といったことを主張した。

また、
形而上学的概念を排するべきだという観点から、原子論的世界観や「エネルギー保存則」という観念についても批判した。
マッハは、感覚に直接立ち現れないことを先験的に認めて命題に織り込むようなことは認めない、としたわけで、いわば、実証主義の中でも極端なそれの立場をとったということになる。
そして当時、ニュートン流の粒子論(原子論)的世界観を応用して、理論を構築しつつあり世界を実在論的な見方で見ていたルートヴィッヒ・ボルツマンやマックス・ブランクらと論争を繰り広げた。

この世界の純粋要素とは〈感覚〉に他ならず、事物も自我も等しくこの〈感覚要素〉から構成されているのである。世界は、この〈感覚要素〉から一元的に成立している。(《感覚要素一元論》)
この〈感覚要素〉とは、色、音、圧、時空間などであるが、しかし、それらは自存恒常的なものではなく、相互依存的変化しやすいものである。つまり、それぞれの個別諸科学において、これらの〈感覚要素〉間の関数的依存関係が設定されてのみ、そこで問題とされる〈感覚要素〉も相対に決定されるのであって、絶対的な原子的〈感覚要素〉があるわけではない。また、対象は、これらの離合集散によって説明されるのだが、その背後に絶対的な実体があるわけではない。
かくして、すべての科学的命題は感覚についての命題に還元されうるのであり、自然科学とは、実は、事物と事物とのではなく、感覚と感覚との連関の法則を立てることなのである。そして、そこでは、事物はたんに感覚の複合体にすぎないゆえに、ただ直接の感覚的所与(データ)の純粋な記述こそ、もっとも科学的な方法とされる。

マッハは哲学の分野では現象学等に多くの影響を与えている。認識論や科学哲学の分野では、思惟経済という考え方を強調したことで影響を残した。生理学でも《マッハ・ブロイアー説》など、マッハの名前が冠された業績は多数ある。心理学分野では《マッハ帯》や《マッハ効果》を発見し、さらに現在ゲシュタルト心理学にも影響を与えている。

 

しかし、
レーニンは『唯物論と経験批判論』を書き、「感覚の複合としての物という、E・マッハの学説は、主観的観念論であり、バークリー主義のたんなる焼き直し」であると厳しく、批判した。

そのようにレーニンはマッハ流の『実証主義』を批判したのに、日本の左翼系の人たちは、マッハ流の『実証主義』である津田左右吉氏の理論を支持した。その理由は天皇制を否定した左翼系の人たちが、レーニン主義より、古代の天皇を否定いた、津田左右吉理論に賛同したためかもしれない。
こうして、戦後津田左右吉氏の学説が主流となっていった。
マッハ流の実在主義をつらぬくと、「過去は実在するのか」となり、基本的に歴史をとりあつかえないのではなってしまう。
その他、 進化論とか、過去とかも、マッハ理論では否定されてしまう。






4.「棺あって槨なし」

①箸墓古墳
宮内庁の公開資料から、下図のように復元されている。その図から、竪穴式石室の中に棺があることがわかる。石室は石槨であり、箸墓古墳は『魏志倭人伝』の倭人の墓は「棺あって槨なし」の記述に合わないことになる。

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・纒向周辺に関係する古墳が多い。(下図参照)
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・崇神天皇前後の時代の狭穂姫(さほひめ)、狭穂彦王(さほびこのみこ)、日葉酢媛(ひばすひめ)、豊鍬入姫(とよしきいりひめ)の命、大海媛(おおしあまひめ)、御間城(みまき)姫について下図の系図を参照。
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②日葉酢媛(ひばすひめ)の命陵(奈良市山陵町)
垂仁天皇の妃であった狭穂姫(さほひめ)が兄の狭穂彦王(さほびこのみこ)が起こした反乱に加担して、一緒に死んだので、日葉酢媛は狭穂姫が推薦した妃であった(狭穂姫の姪)。日葉酢媛の命の陵は1916年[大正5年]に盗掘にあっており、盗品が回収されもとに埋め戻された。そのため墳墓の構造はよく分かっている。日葉酢媛の命陵は石室(玄宮)があり、箸墓古墳に似た構造である。

③ホケノ山古墳(桜井市三輪檜原)
豊鍬入姫(とよすきいりひめ)の命の陵墓であるという説がある。崇神天皇のとき、宮中にあった八咫の鏡を宮中から出して、八咫の鏡は豊鍬入姫によって伊勢神宮で祀られることになる。豊鍬入姫ははじめ、笠縫邑の檜原神社にいたと言われている。そして、奈良県磯城郡史によると、笠縫邑に近いホケノ山古墳が豊鍬入姫のお墓ではないかとされてる。
ホケノ山古墳は木槨木棺墓である。

 

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④黒塚古墳(天理市柳本町)
崇神天皇の妃である大海媛(おおしあまひめ)の陵墓であるとされている。
34面の鏡が出土しており、三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面である。黒塚古墳は竪穴式石室で割竹形木棺である。

⑤神原(かんばら)神社古墳(島根県雲南市加茂町の「神原」)
崇神天皇の時代に出雲の国造(くにのみやつこ)に出雲振根(ふるね)がおり、その弟に飯入根(いいいりね)がいた。『日本書紀』の崇神天皇紀に、崇神天皇が天菩比の命から伝わる出雲の宝を要求した時、兄の振根が留守だったので、弟の飯入根が宝を天皇に渡したため、戻った兄が怒って弟を殺した。これを聞いた崇神天皇は使いを出して、兄の振根を殺したとある。
江戸時代に、出雲松江藩士の黒沢永尚(ながひさ)のあらわした『雲陽誌(うんようし)』という本があり、そこの大原郡「神原(かんばら)」の条に「兄塚(あにづか)(いずも)振根の墓である。塚のうえに古木がある。すくも塚(飯)入根の墓である。松の老樹がある。大舎押(おおちゃうす)神原中の高山である。むかい振根がかくれたところである。」とある。

実際発掘してみると、経塚であった。これは「キョウ」の発音から経塚が兄塚と間違えられたものであろうか。現在は神原神社古墳が振根の墓ではないかといわれている。
景初三年銘三角縁神獣鏡が出土しており、神原神社古墳は竪穴式石室で、割竹型木棺である。

⑥柳本天神山古墳(天理市柳本町)
崇神天皇陵のすぐ近くにあり崇神天皇の陪塚といわれている。
23面の鏡が出土している。
柳本天神山古墳は竪穴式石室がある。

⑦桜井茶臼山古墳[桜井市外山(とび)]
被葬者は大彦の命[この付近は大彦の命の本拠地]または、御間城(みまき)姫[崇神天皇妃]といわれており、81面の鏡と正始元年鏡(群馬県蟹沢古墳と同じではないかと言われている)の破片が出土している。
桜井茶臼山古墳は竪穴式石室でコウヤマキ製の木棺である。

 

畿内の諸古墳の築造年代をくりあげていけば、その墓制には、棺と槨とがあり、『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述にあわなくなる。諸古墳の年代をさげれば、「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」などはなりたたなくなる。

崇神天皇の時代などは、歴史時代に、そうとうにはいっている。魏から使いがきたのなら、なんらかの形で記されたであろう。
纒向遺跡は崇神天皇陵古墳、景行天皇陵古墳、纒向の珠城の宮(垂仁天皇宮殿)纒向の日代の宮(景行天皇宮殿)の近くにあるのであるから、『魏志倭人伝』と結び付けるまえに、『古事記』『日本書紀』に詳しく記されている記述をよく読むべきである。



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